2007年4月から2021年10月まで季刊誌として発行されていた紙媒体の「美術屋・百兵衛」。WEBマガジンとなった「美術屋・百兵衛ONLINE」では、過去の発行号の中から評価の高かった記事をピックアップして不定期に掲載します。今回紹介するのは、2010年7月発行号で特集した「徳島文化考」のうち、2021年11月に亡くなられた作家・瀬戸内寂聴さんのインタビューです。(記事内の情報、写真等はすべて2010年現在のもの)
百兵衛インタビュー 瀬戸内寂聴
作家として、人生の先達として、 米寿を迎えた今も活躍を続ける寂聴さんの原点・徳島。
現代日本を代表する女流文学者として、また、天台宗の僧侶として、文学や文化のみならず宗教など幅広い分野で活躍する瀬戸内寂聴さん。彼女は1922年5月15日に、まだ城下町の面影が色濃く残る徳島市塀裏町字巽浜14で生まれた。生家は神仏具商を営んでおり、物心付いた頃にはすでに身近にお遍路さんの姿があった。後に仏道に入ったことも、生まれた時から運命づけられていたのかもしれない。7歳を迎えた1929年に徳島市東大工町2-17に転居。彼女はここから徳島市立新町尋常小学校(現・徳島市立新町小学校)、県立徳島高等女学校(現・徳島県立城東高等学校)に通った。18歳で東京女子大学国語専攻部に入学するまで、旅行を除けば徳島を離れることがなかったという寂聴さん。
様々な事情から故郷と縁遠くなった頃もあったが、今では鳴門市に「曼荼羅山寂庵・ナルトサンガ」と名付けられた仏教道場を建て、徳島県立文学書道館の館長を務めるなど、徳島とのつながりは再び強くなっている。そんな彼女に、出身地である徳島の文化や想い出、そして芸術に対する考え方などについて話を伺った。
やはり〝ふるさと〟は、懐かしい想い出が たくさんある場所。人から徳島のことを誉められると、 自分のことのように嬉しく思う。
──寂聴さんが住んでおられた頃の徳島は、どのような街でしたか?
瀬戸内「私が徳島に住んでいたのは、主に戦前ね。江戸時代から明治時代にかけて藍で栄えた街の、昔のたたずまいが残っていたわ。徳島城跡のある城山公園のあたりには、今も石垣や堀などの名残があるけど、市の中心部で繁華街になった新町川沿いには当時、立派な藍蔵が立ち並んでいました。そのほとんどが、1945年7月4日の徳島大空襲で焼き尽くされてしまった。私の母と祖父も、この時防空壕で爆死しました。北京にいた私は、それから1年もの間、知らずにいた…」
──寂聴さんにとって徳島とは、どんな場所ですか?
瀬戸内「やはり〝ふるさと〟。懐かしい想い出がたくさんある場所。人から徳島のことを誉められると、自分のことのように嬉しく思う。この街を出た時は追われるように出て行ったけど、今はいろんな人からことあるごとに『帰って来い、帰って来い』って言われている」
──今もご実家は残っているんですか?
瀬戸内「当時の建物ではないけど、父が作った『瀬戸内神仏具店』は、今も営業を続けています。父の死後、5つ年上の姉が継いだものの、その姉も亡くなって……。今はその息子、つまり私の甥とその息子の代になって、続いています。場所は有名な眉山の麓。私が通った新町小学校もそのすぐ近くにあるわ。ケーブルカーで眉山山頂まで登ると、眼下の景色は私が子供の頃に見たものとはずいぶん変わった。でも、吉野川や新町川、城山など自然の風景は当時のままで懐かしく思う」
いろんな方とお知り合いになって お付き合いを続けてきたことが、私の大きな財産に なっているのは確かね。
──新町川と言えば、河畔の新町川水際公園に寂聴さんの文学碑が完成したとか。
瀬戸内「ええ、寂聴文学碑『ICHORA』ね。去年4月に完成しました。世界的な彫刻家・流政之さんによる石の作品。実は私が作家デビューする前に京都に住んでいた頃、流さんと同じ会社で働いていたことがあるのよ。でも、その出版社はすぐにつぶれてしまい、私は京都大学で働くことに。医学部の研究室を経て、附属病院の図書室勤務になってから時間的なゆとりも生まれ、小説を書き始めました」
──そして1950(昭和25)年、投稿した小説『青い花』が「少女世界」という雑誌に掲載されました。今年(2010年)は、寂聴さんの作家デビュー60周年ですね。
瀬戸内「あっ、そう。そんなになるかな。自分では全く気付いてなかったわ。当時は〝三谷晴美〟というペンネームを名乗っていてね。〝三谷〟というのは父の旧姓で、私が生まれた時の苗字でもあるのよ。その後に父が〝瀬戸内〟姓の親類と養子縁組みをして、私も〝瀬戸内晴美〟になりました。実は〝三谷晴美〟っていうのは三島由紀夫さんの命名なのよ。私の書いたファンレターが『面白かったから、珍しく返事を書いた』というところから文通が始まり、命名をお願いするまでになって。と言っても、私が手紙にペンネーム候補を5つ書いて送ったんです。〝三谷晴美〟という名前の上に○が付いて返ってきた。世間の見方とは違って、三島さんはユーモアのわかる面白い人だったわね。それに、才能ある人を見抜く目も持ってらした。横尾忠則さんとか、美輪明宏さんとか、みんな三島さんが発掘したようなものだから」
──デビュー前から三島さんと文通しておられた寂聴さんもそのひとりですね。
瀬戸内「そうかなぁ。ただ、いろんな方とお知り合いになってお付き合いを続けてきたことが、私の大きな財産になっているのは確かね。三島さんはもちろんそのお一人だし、流さんもそう。作家になって上京してから、西荻窪の質屋で偶然再会したのよ。その後、私は作家になり、流さんも有名な彫刻家になって。もう随分長いお付き合いになったわね。故郷の徳島で文学碑を建ててくれるという話が出た時、あまり気が進まなかったけど、流さんが作ってくれるならと条件付きで承諾したのよ。長崎県出身の流さんは、何かと徳島とは縁があって、初めて作品を買い上げてくれたのが徳島新聞社だったらしい。アトリエを構えているのは、徳島県の隣りにある香川県の高松市庵治町。去年は阿波おどりにも参加されたし、徳島のことを気に入ってるみたい」
阿波おどりは、世界に誇れる徳島の文化。
──阿波おどりと言えば、「寂聴連」という踊りのグループがあるようですね。
瀬戸内「ええ。私自身も膝を悪くするまでは一緒に踊っていました。寂聴連には横尾忠則さんや、作家の平野啓一郎さんが参加してくれた年もあったわね。阿波おどりは、世界に誇れる徳島の文化。私は世界中いろんな場所に行き、いろんな文化に触れてきたわ。だから、阿波おどりが世界のどんな舞踊にも負けない、素晴らしいものだと確信できるのよ。徳島にはかつてモラエスという人が住んでいました。ポルトガルの外交官として来日して、その後徳島に移住して日本に関する本を何冊も書いた人なの。〝徳島の小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)〟と呼ばれる彼の代表作が、『徳島の盆踊り(O Bon-Odori em Tokushima)』。異邦人であるモラエスの目にも、阿波おどりは世界に紹介すべき立派な文化として映ったんでしょうね。今はショー化して、見せるためのおどりになってしまったけど、阿波おどりは本来みんなが参加して楽しむもの。徳島は昔から芸事が盛んな土地で、家族の中には三味線を習っている者がいたり、笛を習っている者がいたりと、誰もが一芸に秀でていたの。阿波おどりは、一年に一度自分の芸を披露する晴れの場でもあったのよ。隣近所の垣根もなく、みんなが参加して盛り上がる。本当に、素晴らしい文化ね。だから東京の高円寺なんかでも、真似してやるようになったんじゃないの」
徳島県立文学書道館とナルトサンガ。
──なるほど。確かにそうかもしれませんね。ところで寂聴さんは、今も徳島でいろんな活動をされていますね。例えば、県立文学書道館では館長という要職を務めていらっしゃる。
瀬戸内「徳島県立文学書道館は、『徳島にこういう施設がないのはみっともない』という思いから私が率先して運動して生まれましたの。文学と書道を併せた記念館は、全国でも初めての施設。私はこの館に文学資料として、所有していたものの大半、約3万点の資料を寄贈しました。また、館長という立場上、いろんな企画を立て、たくさんの人にご来館いただけるよういつも考えています」
──そして、2009年の11月にはナルトサンガを開庵されました。
瀬戸内「私を育ててくれた徳島の人たちに恩返しをするつもりで作ったの。1500坪もの広い敷地に、古い蔵が立っているところで、道場でも開けば面白いかなと思って。京都の寂庵が約600坪ですから3倍近い広さ。開庵の日には1000人もの人たちを前にして、青空説法をしたわ。3月に実施した2度目の法話は、事前に告知をしなかったけど、それでも口コミだけで500人が集まってくれました。今はそう度々訪れることはできないけど、将来的にはひと月の半分ぐらいは鳴門に行けるようにしたいと思っています。この年になってしまうとなかなか新しいことは始められないけど、徳島にはもうナルトサンガという立派な施設があるんだからね。有効活用していこうと、いろいろ企画しています。道場では写経の用意もしてあるし。お近くの方はもちろん、遠方からもぜひ足を運んで欲しいわ。夏は周囲に蓮の花がいっぱい咲いて、とてもきれいよ」
──今回いろいろと徳島のことを調べてみて、あらためて思ったことなんですが、徳島は非常に文化的な土地柄ですね。
瀬戸内「昔から文化の度合いが高いというか、非常に進んでいる土地だったみたい。例えば藍。江戸時代には徳島藩の財政を支えた産業でもあったけど、今でも徳島の藍に対する評価は高いようね。私は以前から着道楽で、着物を着る機会が多いので、着物作家の方もよく存じ上げているんだけど、皆さん口を揃えて『藍は、やはり徳島の藍じゃなきゃだめ』とおっしゃいますね。それを聞くと、何となく誇らしいような気分になる。また、人形浄瑠璃などは、徳島の文化の原点だと言っても良いかもしれない。私が子供の頃には、まだ町回りの人形芝居がやって来ていた。よく一銭の飴を買って、人形芝居を見たわ。まだ小さかっただけに話の筋を本当に理解していたわけではないけど、子供心に『人生ってうまく行かないなぁ』と感じていたみたい。もしかしたら、こうした町回りの芝居から感じ取ったものが、私の作品の根底に流れているのかも」
──その他に、徳島でお薦めのものはありますか?
瀬戸内「四国と言ったら、やはり八十八箇所巡り。その一番札所は徳島にあるから(鳴門市・霊山寺)、ぜひ訪れて欲しいわ。実家が神仏具店だったから、私自身が、小さな頃から『春は巡礼の鈴の音が運んで来る』と感じてたみたい。〝お接待〟と言うんだけど、徳島の人は四国でも一番あたたかく巡礼者をお迎えすると言われている。それに徳島は海や川、山など自然に恵まれているせいか、おいしいものがたくさんあるわね。子供の頃から新鮮な魚を食べて育ってきたせいか、今でも京都の魚は食べたいとは思わないの。魚がおいしい土地だから、それを加工した練り製品も絶品。特に小松島のちくわがおいしくて。つなぎをあまり使わずに、魚のすり身で勝負しているから、噛みごたえがあるし。小松島のものを食べたら、よそのちくわは食べられないくらいよ。あとは、すだちかな。何と合わせても、その食材をよりおいしくしてくれるから重宝する。日本酒にすだちを入れると、『2級酒が1級酒になる』と言ったものよ」
──さて、寂聴さんは作家であり、尼さんであるとともに、自ら絵を描かれたり、工芸作品を作られたりしていますね。特に『和顔施』は、穏やかな表情の中に味がありますね。
瀬戸内「かわいらしいでしょ。でも、あくまで余技に過ぎないのよ。絵を描くようになったのは、あくまで必要に迫られたから。だから必要なものは、何でも描いてるわ。徳島の文学書道館には、私が作った土仏も展示してあります。焼物を作ることもあるんだけど、陶器のかぼちゃが本物そっくりだったのか、寂庵のスタッフが間違えて鍋で煮ようとしたこともあったのよ」
本物の良さは、 身近に置いてこそわかるもの。
──一度拝見してみたいですね。ところで寂聴さんの身の回りには、いろんなアート作品が飾られていますね。
瀬戸内「やはり本物に触れてなければ、人間の本質は描けないから。良いと思ったものは、なけなしのお金で購入するようにしている」
──どんな作品がお好きなんですか?
瀬戸内「観た瞬間に『好きだ』と思える作品。理屈なんかありませんよ。人を好きになる時も、理屈なんかないでしょ。誰もが、『どうしてこの人を好きになったんだろう』という経験をしたことがあるはず。私は自分の買える範囲のものしか手に入れようと思わないけど、人から良いと進められたものを買うのではなく、自分が良いと思ったものだけを購入している。それに絵は観てはじめて理解できるもの、音楽は聴いて初めて理解できるものだからね。手元に置いて、観たり聴いたりしないといけない。最初はわからなくても、本物を身近において鑑賞していれば、段々とその良さがわかって来るものです。皆さんもぜひ本物に触れるようにしてくださいね」
profile:瀬戸内 寂聴(せとうち じゃくちょう)
1922年5月15日徳島市に生まれる。
東京女子大学国語専攻部卒業。在学中に結婚し、卒業後夫とともに北京へ渡る。終戦後引き掲げ、1950年に離婚。文筆活動を始める。1956年「女子大生・曲愛玲」で新潮同人雑誌賞を受賞。以後、1960年には「田村俊子」で第一回田村俊子賞を、1963年「夏の終わり」で女流文学賞を受賞。瀬戸内晴美の筆名で幅広い創作活動を展開する。1992年「花に問え」で谷崎潤一郎賞、1995年『白道』で芸術選奨文部大臣賞、1997年文化功労者、1997年NHK放送文化賞受賞。古典に造詣が深く、特に『源氏物語』に関する著書は多数。1998年『源氏物語』の現代語全訳完成。『源氏物語』に関するものとして、『女人源氏物語』『わたしの源氏物語』『歩く源氏物語』『源氏物語の脇役たち』『瀬戸内寂聴訳源氏物語』などがある。 1973年、中尊寺で得度し仏の道へ。法名は寂聴、京都・嵯峨野に寂庵を構え、活発な宗教活動、社会活動を展開している。1987年には岩手県の天台寺住職に就任。2009年には徳島県鳴門市に寂庵分院のナルトサンガを設立するなど、故郷での活動も盛んに行っている。 また、2000年には徳島市名誉市民の称号を授与されている。
2021年11月9日没(享年99歳)。
※この記事は2010年7月6日に発行した雑誌「美術屋・百兵衛」No.14の記事を再掲載したものです。ナルトサンガは2014年に閉鎖され、また、徳島県立文学書道館の詳細などもその後の環境の変化によって変更された可能性があります。