コラム

街を歩けばアートに出会う
美術探偵の“街中あーと”めぐり  第16回

文・写真=勅使河原 純

新宿の目/見ているのか、見られているのか

街角にひっそりと佇む何気ないアート。しかしそうしたなかに、時として見る人の心に鋭く斬りこんでくる「優れもの」が、たくみに紛れこんでいないとは限らない。東京新宿駅西口前に広がっている通称地下広場などは、その好例だろう。都庁に勤める公務員の人々が夕方、新宿駅へとドッと吐き出されてくる際の通路出口付近に、それはある。新宿スバルビル横の壁面に設置された、宮下芳子の手になるアクリル製オブジェ『新宿の目』だ。

宮下芳子《新宿の目》

宮下芳子《新宿の目》1969年

 

人間をはじめ、ほとんどの動物に光を受容する感覚器官の「目」はつきものだ。だがまなこ、つまり黒目/瞳孔・虹彩・角膜、白目/結膜、涙点からなるアーモンド状の部分だけに注目し、高さ3m、幅10mほどもある巨大な造形物に変身させたとなると、話は自ずから違ってこよう。たまたま『新宿の目』の前を通りかかった人は、まずその度外れた大きさに驚き、地上すれすれに始まるかなり荒っぽい設置方法に、これまた何ごとだろうかと訝しがるかもしれない。やがてその中に埋めこまれた照明に気がつくにつれ、極彩色の光線へと関心が移っていく。冷たい物質のオブジェが、これほど綺麗なのはどうしてかと、思わず首をかしげざるを得ないのだ。(この作品は1969年に蛍光灯を使って制作されている。その後2015年2月に、LED照明および最先端の反射素材によって修繕され、現在に至っている。)

宮下芳子《新宿の目》画像

宮下芳子《新宿の目》1969年(部分)

宮下芳子《新宿の目》画像

宮下芳子《新宿の目》1969年(部分)

つまりわれわれが物を「見る」とは、そもそもどういうことなのかという、かなり哲学的な疑問へとたどり着かないわけにはいかない、巧妙な仕掛けにもなっているのだ。作家・宮下芳子は、好奇心旺盛な現代アートのカタマリのような人なので、何でも徹底的に凝視する性癖があったに違いない。同時に彼女はまた「見られる」ことにも、かなり拘ったはずである。それでは「見ること」と「見られること」の関係は、一体どうなっていたのだろう。こうして “街角あーと” の避け難い特質として、美術アートの根本命題へとグイグイ迫っていく斬りこみ方、それが宮下芸術の最大の特色といっていいだろう。

彼女は鹿児島市の出身だが、生まれたのは中国の天津市である。女子美術大学を中退後、アートに対してまったく独自のアプローチをつづけ、今日に至っている。それ故、あえて洋画・日本画・彫刻という伝統的なジャンル分けには拘らず、絵画とガラスモザイクによるレリーフを同時に制作し、また数多くの彫刻・オブシェも一緒に手掛けてきた。1977年より17年間パリに滞在し、サロン・ドートンヌやサロン・ナショナル・デ・ボザールへも出品をつづけている。西洋文化と時間をかけ、心行くまで交流したひとつの結論として、彼女は「アートは独創とパワーだ」といってのける。

宮下芳子《新宿の目》画像

宮下芳子《新宿の目》1969年(部分)

ところで宮下芳子がアトリエを移したパリでは、ほんの少し前までアートに関する鋭利な論考で知られた哲学者のメルロ=ポンティが、さかんに活躍していた。宮下が幾多の疑問を抱えながら、それでもなお見事な造形物へとたどり着けた陰には、案外まだメルロ=ポンティの残り香みたいなものがあったためかもしれない。例えば、もっぱら美術家が行う見るという行為を、「現実に密着したまま世界と対話しようとする独自の試み」として特に重視したのは彼であったし、「芸術家こそ真実を告げているのであって、嘘をついているのは写真の方なのです」などという、皮肉っぽい言葉も残している。メルロ=ポンティにいわせれば「新宿の目」は、自画像にも負けないほど「見ること」と「見られること」の表裏を炙り出した、きわめて稀な作例ではなかったろうか。

勅使河原 純
美術評論家。1948年岐阜県出身。世田谷美術館で学芸業務のかたわら、美術評論活動をスタート。2009年4月、JR三鷹駅前に美術評論事務所「JT-ART-OFFICE」を設立、独立する。執筆・講演を通じ「美術の面白さをひろく伝え、アートライフの充実をめざす」活動を展開中。

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