文・写真=勅使河原 純
春秋に遊び、サリーと戯れる
美大を出たばかりの画家・田村能里子は1969年、全身全霊を傾けて立ち向かうべきテーマを求めて旅に出た。それもニューヨークやパリの、お洒落な街角などではない。何を思ったか、彼女が目指したのはインド奥地の砂漠地帯である。美術館はおろか画廊一軒ありそうにない、文化果てる地といってもいい。だがそこで彼女が出会ったのは、厳しい風土に逞しく生きる素朴な女たちだった。田村はたちまちインドの女や、皮の垂れ下がった白い聖牛、そして道端の陽だまりで日がな一日過ごしている老人たちの虜となる。
画家はいう。インドで出会った「女神たち」は変身流転して、その後もあちこちに姿を現し、都会の喧騒から逃れてきた人々の乾いた杯を潤し、心までをも癒してくれる。まさに豊饒な自然、豊饒な美、豊饒な時間だ。さらに女神たちの骨格がしっかりしていて、造形的な美しさを漂わせていることも看過できまい。とくに女神たちの顔立ちが立体的で、どの角度からみても描きやすいことは、絵描きにとってこの上なく有り難い好運だったことだろう。
目が大きく、いわゆる「ものをいう三白眼」が多かったことも、田村には見逃せない美点であった。四肢、とくに脛や肘が長いと、もうそれだけで造形としてのスケールのおおらかさは際立ってくる。これに、指先の動きなどに宿る表情の豊かさが加われば、もうほかに求めるべきことはあるまい。しゃがんだり、寝そべったりの日常茶飯な動作でさえ、何か特別に優雅な仕草の極みにみえてくるではないか。インドの民族衣裳であるサリーは、薄い単衣なので、体の動きや捻じれをシンプルに写し出すにはもってこいの素材である。
ある日ふと気がつく。インドの女たちが示している魅惑的な「ひとのかたち」は、実のところ人生を行く旅人の姿そのものなのではなかろうかと。つまり絵とは旅する人々の姿を、周囲の状況までをも含めてそのままに描きとる、一瞬一瞬の営為なのかもしれない。ぼんやりとした、だが意外に本質を衝いている気もする奇妙な啓示だった。それが画家を、無限に広がって留まるところを知らない「壁画」の世界へと、少しずつ引き寄せていく魔力の正体なのかもしれなかった。以来田村能里子は、ストリートのウォールに夢中となり、高い足場の上で身を屈めて作業する危険きわまりない仕事に、己のすべてを賭けていくこととなる。
忙しい毎日のなかで、彼女は大学時代から慣れ親しんだ領域に建つ病院から、制作の依頼を受けた。青梅・慶友病院だ。人生を旅するバックパッカーに病はつきもの。人は病み疲れたとき、ふと思い出したように病院へと足を向ける。それも画家が若き日に学んだ母校にほど近い、武蔵野丘陵の真っただなかにポツンと屹立する病院だ。懐かしい雑木林といい、雑踏の匂いがしない静まり返った病棟といい、彼女にとっては人生再生の場からの願ってもない仕事と思われたことだろう。そこに「砂壁の舞う街」や「春秋遊々」の長大な物語を少しずつ結集させ、全体を形づくっていく。作品たちは広大な院内のあちこちを飾り、入院患者の心を少しずつだが確実に溶かしこみ、優しく包みこんでいったに相違あるまい。
「砂壁の舞う街」は街角の白壁に、孔雀ともフェニックスともとれる一羽の大鳥が、いましも翼を広げて華麗な姿を現した瞬間を髣髴とさせる一枚だ。他方「春秋遊々」は、わが国の四季を代表する桜と紅葉がともに太陽と月光に包まれ、優美な調べを奏でる乙女や子供たちとともに描かれた、格調高い群像肖像画である。この世の生きとし生けるものすべてが、自然からの恵みを身体一杯に受けとり、心ゆくまで命の火を滾らせようとする、この上なき人間讃歌となった壁画といっていいだろう。
勅使河原 純
美術評論家。1948年岐阜県出身。世田谷美術館で学芸業務のかたわら、美術評論活動をスタート。2009年4月、JR三鷹駅前に美術評論事務所「JT-ART-OFFICE」を設立、独立する。執筆・講演を通じ「美術の面白さをひろく伝え、アートライフの充実をめざす」活動を展開中。