文=佐々木 豊
二十歳の頃
二十歳の時、君はどんな暮しをしていたのだろうか?
初恋で眠れぬ夜を?
小生は粗末な小屋で1日中、パチンコの釘を打ち続けていた。
立ちぱなしで職人たちと猥談を交わしながら。
今回は成人式にちなんで「二十歳」がテーマである。
成人式の行事が行われぬようになったのは、小生が二十歳を迎える前の年あたりからであろうか。昭和二十年代の終り頃だ。
女性は晴着姿で、男性は背広にネクタイをしめて、地元の小学校の校庭へ集った。晴がましい光景が目に浮ぶが、小生にとっては、人生でもっともみじめな年であった。
挫折と再生、暗から明へ
その春、東京芸大の油画科の受験に失敗、地元の名古屋へ帰ってみじめな浪人生活を送るはめになったのだ。
生れ育った熱田神宮に近い堀田は、それまではブラザーミシンで、もっていたが、おりからのブームで、5軒に一軒はパチンコ器具の製造業で活況を呈していた。中学の同級生の久野君の実家へ頼んで、釘打ち工として雇ってもらったのだ。
休日の土・日は、自転車をとばして、今の中日球場近くにあった愛知学芸大学を目ざした。
三菱の工場跡を改造した、美術学部の教室は窓が爆撃で破れたままになっていて、しのび込むことができたのだ。休日なので、がらんとしたアトリヱには誰もいない。そこで、棚からブルータスをとり出して夢中になって描いた。
何という静けさだ。どこからか、ピアノの音が聞えてくる。
音楽学部の学生が奏でているのだろう。きまって、モーツアルトのトルコ行進曲だった。どんな女子学生がひいているのだろう。今だったらのぞきに行くだろうが、そんな余裕はなかった。㐧一、男子学生かもしれないじゃないか。
その年の暮れ、パチンコの釘打ちで稼いだ三萬円を握りしめて、東海道線の熱田駅へ向った。まだうす暗い晩秋の朝だった。おふくろが重い荷物をかついで見送りに来てくれた。5キロはあろうかという道のりである。おふくろも若かったのだ。今でもあの時のおふくろの年齢が気になる。40代後半ではなかったか。
汽車賃の安い鈍行に乗ったので、東京駅へ着いたのは夕暮れ時だった。旭丘高校の一年先輩の加藤秀雄氏が待っている溝の口の多摩美術大学の学生寮へ向った。その春、そこへ泊って、芸大の受験にのぞむ学生たちと一緒に上野へ向った馴染みの場所だった。
翌日から下宿探しが始まった。中央線の中野駅前には周旋屋が軒を連ねていた。次の駅の高円寺や阿佐ヶ谷は6畳の部屋代だけで月6000円もする。三つほど先の三鷹駅から徒歩10分の処に、予算内の2900円の部屋を見つけた。
2階で6畳、大家さんは気のいい中年の夫婦だった。
翌日、多摩美の寮から荷物を一人で運んだ。その晩は久しぶりでぐっすり寝た。
翌日から受験生の集る阿佐ヶ谷研究所へ通う毎日。
坪井先生が、デッサンの前へ座わると「彫刻を受けるの?」「イヤ、油です」背景を暗くして石膏像を白く浮び上らせる描き方を知らないので、黒く見えたのだろう。
受験申し込みの日は朝4時に起きて、一番列車に乗って上野へ。受験番号は55番。倍率は国立ではダントツの16倍だった。
受験当日、会場へ行ってみると、55番は前から3つ目の教室。入るとアリアス像が。55番の場所へ座ってアリアスを眺めると、いっとう美しく見える横顔が目の前に。言葉にならない感動の波が……。
発表の当日、合格者の数字が並ぶ掲示板に近づいていくと55番がすぐ目にとび込んできた。
この瞬間から人生が変ったように思われる。暗から明へ。
嬉しくて、とにかく歩きたかった。気がつくと東大の赤門の前へ来ていた。中へ入ると、すぐ池が目についた。漱石の小説で有名なあの三四郎池である。近づくと、4人の学生服が議論をしていた。
何という違いだ。同じ年頃なのにあのパチンコ職人たちと。
中日新聞に名前が載った。当時は国立大の合格者の名前は新聞に載った。
兄貴が、月5000円の生活費を出してやると言ってくれた。3000円の奨学金と合わせると、人並の学生生活が送れるのでひと安心した。
初恋の坂道、旋律の記憶
ずっと、頭から消えることのなかった、初恋の伴野元子さんにデイトの申し込みの手紙を書いた。長屋続きの下町の家から、ピアノの響きが流れてくる家があった。小生の通う旭丘高校の1つ手前の金城学園へ通う、芸大の声学科をめざすお嬢さんだと分った。芸大で会おうねと朝の通学電車の中で一度だけ会話をかわしたことがあった。
だが彼女は芸大声楽科には受け入れられず横浜のフェリス女子大の声楽科に身をおいていた。
「僕は1年浪人して、この春、東京芸大の油画科に入学することが出来ました。5月1日の午後2時に品川駅のプラットホームでお待ちしています」
彼女は時間通りに姿を現わした。その時の胸のときめきを昨日の出来事のように思い出す。
品川駅から都電に乗って、日比谷方面へ向った。半蔵門で都電を降り、左に皇居のお堀を眺めながら肩を並べて丸の内のビル街へ。中学の修学旅行でこの坂の光景が目にこびりついて、好きな人と一緒に歩くのが夢だった。
30年後、池田満寿夫氏と妻君でバイオリニストの佐藤陽子氏とタクシーでこの坂を通って東京駅へ向う機会があった。
「この坂は初恋の人と肩を並べて歩いた想い出の……」と小生が切り出すと
「あら、私は前の亭主(高名な外交官、岡本行夫氏)と別れ話をしながら、この坂を……」と陽子氏。
満寿夫氏は隣りの席でいびきをかいていた。
佐々木 豊
画家/1935年愛知県出身。1959年東京藝術大学油画科卒業、1961年同専攻科修了。受賞:1959年国画賞(1960年も)、1961年国画35周年賞、1992年第15回安田火災東郷青児美術館大賞、1993年・2001年両洋の眼展:河北倫明賞など多数。1991年〜2006年明星大学教授。日本美術家連盟理事。技法書『泥棒美術学校』(芸術新聞社)は10版を重ねる。他に著書多数。