コラム

日々是好日 −画家の書斎から−
第11回

      文=佐々木 豊

「巴里」わが青春

今回のテーマは「巴里」である。
オリムピックにちなんで「巴里」にまつわる話を、というのが編集者の注文である。その前に、1964年の東京オリムピックの話を少し。小生、大金を稼いだのである。
まだ学校を出たばかり、美術学生ばかりの住む素人下宿にいた。
皆、金は無いが暇だけはたっぷりある。誰が言い出したか、ダフ屋になって荒稼ぎしようということになった。さっそく役割分担が始まった。
朝早くから並んで入場券の買い占めをする者……。小生、その時、小金を持っていた。最初の絵画ブームに乗って恩恵に預ったのだ。で、出資者になった。そして、自分のために、いっとういい席を確保した。
あの素足のアベベ選手がマラソンで、目の前でテープを切るのを目撃した。2位で円谷選手が競技場へ入ってきたが、小生の目の前で3位の外国人選手に追い抜かれた。その時の観衆の悲鳴は今も耳にこびりついている。自衛隊に所属していた同選手は「もう走れません」という遺書を残して自らの命を断った。

 

街へくり出しドンチャン騒ぎ

さて、「巴里」である。
初めて「巴里」を訪れたのは1967年である。
世界一周の旅で、羽田を7月15日に発ち、「巴里」に着いたのは9月であった。
初の外国旅行。学生時代からの友人と3人で弥次喜多道中、見るもの全て、感激と驚き。ギリシャ、イタリア、南フランス、スペインを経由したからである。
この時、巴里には、親友の平賀敬がいた。汎太平洋展でグラン プリを得て、副賞の巴里留学賞で地の利のよいポン マリの日本館に定住していた。酒飲みの平賀邸には夕飯が終る頃になると、外国人を混えた常連客が毎晩、集まってきて、街へくり出しドンチヤン騒ぎ。1ヶ月の滞在予定が、アッという間に2ヶ月が過ぎてしまった。
この最初の巴里滞在で、街の隅々まで、知りつくしてしまった。
その後「巴里」には、1年おきに出かけた。主に夏の巴里である。いずれも物見遊山、1度だけ仕事で出掛けたことがある。

 

巴里の夜の画家たち

美術雑誌『アトリヱ』ページ抜粋

 

今から、半世紀も前、1983年、グラン パレで、大規模なマネ展が開かれていた。そのマネ展を軸に、「巴里」を取材してこいという願ってもない依頼である。依頼主は、当時人気の高かった美術雑誌「アトリヱ」である。飛行機代から、宿泊費、その他全て出版社もち。
いま、その「アトリヱ」が小生の目の前にある。
「特集マネ展、そして巴里」雑誌の大部分が小生の書いた記事で埋められている。
上野の都美術館で一度だけ会ったことのある画家の友田智恵さんが、小生のために、自宅の庭で2度も歓迎のパーティを開いてくれた。
集ってくれたのは巴里在住の日本人やフランス人画家のほかに、巴里に憧れてやって来た、様々な国の画家たち。
学生時代に半年だけ「アテネ・フランセ」でレッスンに通って憶えたフランス語が役立った。
国籍は異なるが、「絵」と「巴里」が好きという共通の話題で盛り上り楽しい会だった。
緑豊かな庭での食事はまた格別である。食事が終ると誰言うことなく、皆へ街へ出ようということになった。
二台の車に分乗して、セーヌ河岸を目ざした。どこかの橋の上で車を降りて、水面を眺めていると、突如、大音響が。
花火である。水面を赤く染める朱の輝きに、身がうちふるえた。
そうだ、明日は巴里祭だ。

美術雑誌『アトリヱ』ページ抜粋

 

恋もセーヌ川も流れるミラボー橋

今、思うと、あの橋はミラボー橋ではなかったか。
Sous le pont Mirabeau coule la Seine
アポリネールの詩にレオ フェレがふしをつけた。
このシャンソンをイヴ モンタンが唱って世界中にはやらせた。
小生、学生時代に名古屋の公会堂で、モンタンをナマで聴いて、感動した。それ以後、映画「恐怖の報酬」など、イヴ モンタンの出演する映画は全部観た。
あれは何度目の「巴里」訪問だったか。オペラ座近くのホテルに1ヶ月近く滞在して、ヴェルサイユ宮殿やカンヌやニースまで足を延ばした。巴里へ戻ると、雨の日が続いた。夜、サントノーレ辺りを傘を差して歩いていると、日本人の女性とすれちがった。暗い表情をしている、女優の岸恵子だった。
後で分ったが、永い間一緒に暮していた映画監督のイヴ・シャンピ氏に、その夜、卵を投げつけて、家を飛び出してきたのだった。
連日の来客に疲れ果て、切れてしまったのだ。
テレビがまだない時代、ラジオの連続ドラマ「君の名は」で風呂屋をガラガラにした名女優と雨の「巴里」の夜に出会うなんて。

佐々木 豊
画家/1935年愛知県出身。1959年東京藝術大学油画科卒業、1961年同専攻科修了。受賞:1959年国画賞(1960年も)、1961年国画35周年賞、1992年第15回安田火災東郷青児美術館大賞、1993年・2001年両洋の眼展:河北倫明賞など多数。1992年〜2006年明星大学生活芸術学科教授。日本美術家連盟理事。技法書『泥棒美術学校』(芸術新聞社)は10版を重ねる。他に著書多数。

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