「山があるから山の景色があるのではない、景色として山をみるから山の景色があるのだ」。フランスの人文地理学者・哲学者であり、「風土学」を切り開いたオギュスタン・ベルクの言葉が面白い。風景とは、心理的側面と物理的側面の二つの要素が複雑に絡み合って生成されているのだという。
東京に長く暮らし、京都、和歌山を経て、いまは熱海の山の上に暮らしている。熱海は特に、独特の風景を持つ街だと日々感じる。このカットを見るだけで熱海だとすぐにわかるような風景がいくつもある。
遠出や旅行で地方の街々を車で走ることがたまにある。メインロードに出ると必ず、見慣れたチェーン店が並び、見た事のある風景が当たり前に現れる。それでも路地に入れば、その街の持つ風景というのは必ずあるのだろうし、こことそこは別の街で、もちろん同じではない。どこかで見た風景というのは、自身の思い込みや曖昧な既視感によって形成されているのかもしれないとオギュスタン・ベルクの言葉を知って納得がいった。回転寿司屋の隣にはかつ丼の店があってラーメン屋がある。この店があることで、いつか見た既存の風景へと変換され同化していく。そう考えると私に風景を見せているのは、心理的側面が埋める部分が大きいような気がしてくる。
東京都写真美術館で11月5日まで開催されていた「風景論以後」が面白かった。近年考えていたことを可視化し、同じ目線に立ち思考を巡らせられるような展示だった。「風景」に関連した映画の上映も同時開催されていて、中でも、『略称・連続射殺魔』(1969年)は、風景を考える上でも、実に興味深い作品だ。19歳で4人の男性を射殺した永山則夫を題材としたドキュメンタリーで、永山の足跡をたどり、永山が見てきたであろう風景をただ映すという手法で展開される。
風景の中に人物を読み取ることができるのか。風景とは、一見、現実を提示して見せているようでいて想像に直接働きかけるものなのかもしれない。自分の認識の不確かさを風景を介して思う。同展での映画のキュレーションを担当された映画評論家の平沢剛さんと出品作家の遠藤麻衣子さんによるトークの中で、遠藤さんがぽつりと言った、風景を撮っていても「私のファンタジーが映る」という言葉が印象に残った。3時間を超える遠藤さんの出品作『空』も興味深い作品の一つで、実態のない「こころ」とは何かをテーマに、日々、無為に撮影を進めたという映像が映し出されていく。その何でもないように思える風景を見つめることで見えてくる、何でもないように思える風景を重ねることでしか見えてこない、街や人の機微を思う。
人は、自分で思うよりも、自分が見ているものを自分が見たように解釈し、記憶する。それは自身にとってもコントロール下にあるものではないのだろう。風景が流れるように心象も移り変わる。それを留めることはほんの一瞬でしかないのだと、あらためて思う。「心象風景」とは面白い言葉だとも、あらためて。
ヤマザキ・ムツミ
東京生活を経て、京都→和歌山へと移住。現在は熱海在住。ライターやデザイナー業のほか、映画の上映活動など映画関連の仕事に取り組みつつ、伊豆山で畑仕事にいそしんでいる。