山がポコポコと色を変え染まる中、秋空は高く広がりを見せている。
聞いたこともない鳥の声に耳を澄ませながら、身を寄せる「空間」というものについて考えている。
山にいること。都市にいること。
場によって人間の身体は驚くほど変わり、精神にも大きな影響を及ぼしている。
まだ紅葉も深まらぬ10月の初め頃、山を下りて、北陸・金沢へと旅に出た。
金沢が生んだ世界的・仏教哲学者である鈴木大拙。その意思を映した鈴木大拙館は、「玄関棟」「展示棟」「思索空間棟」の3つの棟と、「玄関の庭」「露地の庭」「水鏡の庭」の3つの庭から構成され、これらの空間を回遊しながら、それぞれの思索を自由に広げていくことを目的としている。観光地の賑わいから一転して館内は、静けさに包まれ、「何もない」空間を預け、訪れる者に大きな問いを与えていた。
大拙は、禅の教えを世界に広め、「霊性」を提起して近代日本思想に影響を与えた。この「霊性」という感覚は、現在の「スピリチュアル」的なものに本質的にはとても繋がっているように感じる。
その後、「金沢21世紀美術館」を訪れると、期せずして「時を超えるイヴ・クラインの想像力ー不確かさと非物質的なるもの」が開催されていた。クラインを中心とする展覧会は国内では約37年ぶりだという。
クラインは、芸術の「脱物質化」を追求し、色や火、空間や音という物質から離れたものをモチーフに多用している。物質を離れた不確かなもの。それはもう「霊性」に相違ない。クラインの代表的シリーズでもある、《人体測定》は、まさに人間に宿る霊性をキャンバスに具現化した作品のようで、様々な思念のようなものが焼き付き、それは恐ろしくもあり、魂の根源を目撃したかのようにも感じさせた。
おそらく私たちは、日ごろから思索を広げ、物質から離れる空間を必要としている。
平たく言えば、喫茶店で本を読み、ただ物思いにふけるという時間の贅沢さのこと、のような気もする。物質を離れ、身体を離れ、ただ精神のみで漂うこと。自身の霊性を失わないために、そうした空間に身を浸す時間が必要なのだと思う。
超越的な存在の代表とも言える、神や死後の世界(霊的なもの)。私たちは超越的であるものに慄き、憧れ、夢想し、芸術に触れる。超越的=霊的とするならば、芸術とは霊的であればあるほど多くの人を惹きつける魅力があるように思う。前回触れた「山」という場所自体が霊場であることにも、とても近しい。
イヴ・クラインの《空虚への飛翔》の前に立ち、これからは、一層「超越」がテーマになっていくような予感がした。ジェンダーレスが進み、分断やカテゴライズ、これまでの固定観念から自由になろうという動きが強い。AI(人工知能)をはじめ、人間ではないものに創作した絵や作品も今後ますます増えていくのかもしれない。その中で、幾層もの「社会」に属し、不自由で不器用な身体を持った人間であることを、私たちは霊性を持って、どこまで超えていけるのだろう。
Information
鈴木大拙館
https://www.kanazawa-museum.jp/daisetz/
金沢21世紀美術館
https://www.kanazawa21.jp/
ヤマザキ・ムツミ
東京生活を経て、京都→和歌山へと移住。現在は熱海在住。ライターやデザイナー業のほか、映画の上映活動など映画関連の仕事に取り組みつつ、伊豆山で畑仕事にいそしんでいる。