関東平野に生まれ、山も海も存在しない中で育った。
特に何があるというわけでもない、分かりやすい郊外のまちだったが、特に大きな不満はなかった。成人し、東京で長く暮らしたのち、京都へと移る。初めて、四方を山に囲まれた土地に暮らして、どこにいても「山がある」という、ただそれだけの事に不思議な安堵感を覚えた。
この、山が持つ絶対的な存在感というのはいったい何だろうとずっと考えている。人はなぜ山に登るのだろう。山に籠るのだろう。山に何があるというのだろう。
夏の終わりのこと。山好きの友人に連れられ、山形を訪ねることになった。山岳信仰で有名な出羽三山はあいにくの霧に囲まれ訪問できず、蔵王の「お釜」という場所に連れて行ってもらった。
リフトで山を上がって行くと、そこには、宇宙が広がっていた。荒野に霧が立ち、火星だと言われたらそうかもしれないと思えた。火山活動によって出来たどうのという説明も不要なほど、表現のしようのない鮮やかなエメラルドグリーンは、天から与えられたものとしか思えなかった。
断崖絶壁の山々と霧に包まれた宇宙に立ち、ふと、ある言葉が浮かぶ。
《万有引力とは ひき合う孤独の力である 宇宙はひずんでいる それ故みんなはもとめ合う(谷川俊太郎『二十億光年の孤独』より引用)》
山形での道中、友人が読んでいた「利他」に関する本に興味を持ち、私も帰ってきてから読み始めた。コロナによるソーシャルディスタンスによって、より他者との繋がりを見直す時にある、というような書き出しだった。
私はおそらく別のベクトルで、他者との繋がりということをずっと考えている。山があり、海があり、空がある。これほどの豊かさの中で、「他者」の必要性とは何だろう。繋がるとは何だろう、と。「万有引力」に思いをはせ、いまだ、理解できずにいる。
京都に暮らしていた頃、一度だけ見た五山送り火は本当に美しかった。遠くの山に静かに燃える「大」の字に強く励まされた。母が亡くなってちょうど三回忌の年だったと思う。大勢の中でつま先立ちで見上げた炎に、自然と涙があふれたことを覚えている。母に触れたような気がした。山に、そこに、すぐそばに母はいつもいるのだと伝えていた。
霊場ともされるように、山は天(神)に繋がっている。田畑の水源でもあったことから古くより豊かさの象徴でもあったのだろう。この山を登れば、その先にきっとまだ見ぬ希望がある。この暮らしを救ってくれる。そう信じることができる、理解を超えた何か。
山に暮らす人は少ない。まるで仙人かのように扱われる。山とともにあることは人間であることから離れていくことなのだろうか。実際、高い山の山頂では、重力が弱くなるということが科学的にも証明されているらしい。万有引力から解き放たれた世界を求めて山を登り、そしてまた街へと下りていく。当たり前に、重力の中で生きることを選ぶ。それは、「原罪」とも深く関係しているのかもしれない。その不思議についてずっと考えている。
ヤマザキ・ムツミ
東京生活を経て、京都→和歌山へと移住。現在は熱海在住。ライターやデザイナー業のほか、映画の上映活動など映画関連の仕事に取り組みつつ、伊豆山で畑仕事にいそしんでいる。