コラム

美のことごと -46-

文=中野 中

(46) 生きて生ききった37年

 転居して一か月余りが経って、ようやく落ち着いてきた。美術館や画廊などの展覧会巡りと執筆生活は相変わらずだが、住環境がすっかり変わった。
 団地生活の無味乾燥をおもんぱかっていたのだが、思いのほか自然に恵まれていた。目前を流れる野川には鴨の親子連れに白鷺、雀の集団にからすが我が物顔に加わり、燕の飛影がよぎる。遊歩道に捕り網を持つ小さな子が蝶々を追いかけ、老若男女がジョギング(ウォーキング)に励んでいる。
 2階のベランダから芝庭やいちょう並木、花壇の花々をで、目を上げれば向かいの棟の上にせり上がってくる雲の塊りや広い空に流れる雲が朝夕に染め上がる彩り、そして月の満ち欠け。雨には雨の風情を飽かず眺めている。

 そんな日々の一日、以前から訪ねてみたく思っていた「新宿区立中村彝アトリエ記念館」へ出かけた。“彝”は“つね”と読む。ちなみに漢和辞典を引いてみると、①祭りに用いる道具の一種。②永久に変わらない道。とある。
 この②の意味に、彝の生涯を思うと、あまりにも宿命的な人生を暗示しているようで、思い一入ひとしおである。

 さて、JR山手線目白駅から歩いて10分余、案内板や石畳に嵌め込まれたタイル板(たぶん直筆の“彝“字が刻印)に導かれて、閑静な住宅街の中にあった。
 彝(明治20年〜大正13年=1887〜1924)は、水戸(茨城県)に生まれ、14歳で名古屋陸軍幼年学校に入学したが、肺結核の診断を受け退学。17歳、療養のため転地した北条湊(千葉県館山市)で風景画を水彩で描いているうちに画家を志し、19歳から翌年にわたり白馬会洋画研究所、そして太平洋画会研究所に移り、中村不折や満谷国四郎らに油絵の指導を受けた。
 そして22歳から文展を舞台に、目覚しい活躍を始めるのである。その活躍ぶりを編年的に書き出してみる。

明治42年(1909、22歳) 第3回文展に《曇れる朝》《巌》を出品。初入選。
同43年 第4回文展《海辺の村(白壁の家)》が3等賞、《肖像》入選。
同44年 第5回文展《女》3等賞。(相馬愛蔵・黒光夫妻の好意で、中村屋裏のアトリエに移る)。
同45年/大正元年 肺結核が進行し、喀血かっけつが始まる。翌年から相馬家の長女俊子をモデルに多数制作。
大正3年 第8回文展《小女》3等賞。(俊子への愛に悩み、暮に伊豆大島へ。翌年春、中村屋裏のアトリエを出て、日暮里の下宿に移る。夏、俊子との結婚を申し込むが反対される。)
同4年 第9回文展《保田龍門氏像》2等賞。文部省買い上げ。
同5年 (夏、東京府豊多摩郡落合村下落合464番地に新築したアトリエに転居)。第10回文展《田中館博士の肖像》(特選)、《裸体》入選。
同8年 (俊子の結婚を知り落胆。平磯海岸−茨城県ひたちなか市−に転地療養するが好転せず)。
同9年 鶴田吾郎とともに《エロシェンコ氏の像》を制作。第2回帝展に同作を出品。
同12年 《頭蓋骨を持てる自画像》未完。
同13年 第5回帝展《老母の像》を出品。12月、喀血による窒息のため、逝去。37歳。

 これがほぼ15年にわたる画業のすべてであり、結核との闘い、俊子への愛の苦しみの経歴である。(この項、記念館発行のパンフレットによる)

 記念館の門を入って、奥へ細長い管理棟があり、向かいあう位置にアトリエ棟がある。
 いま、目にしている建物は、彝の没後、増改築されたものだが、記念館として保存するにあたり、出来る限り建築時(大正5年)の姿に再現すべく、当時の材料も使用しているという。
 建物は、急勾配の切り妻屋根をアクセントにした平屋で、アトリエの天井高は5メートル余。北側の大きな窓と天窓からやわらかで優しい光が、この日も射し込んでいた。壁には自画像、板張りの床に置かれた2脚のイーゼルに、彝と鶴田吾郎の〈エロシェンコ像〉が仲良く並んでいた。
 彝のこの作品は現在、重要文化財(東京国立近代美術館蔵)に指定されるなど、のちに大正期を代表する洋画家と評価された彝の作品のいくつもがアトリエと管理棟に展示されている(いずれも高精度の複製)。また、晩年の《頭蓋骨を持てる自画像》(大原美術館蔵)や《老母の像》(水戸、水府明徳会彰考館蔵)には、セザンヌの造形などを勉強、摂取しようとした様子がうかがえる。
 アトリエに続いて南面する居間がある。大型画像が投写され、私も椅子にかけてしばし追憶にふけっていた。
 居間から眺め、扉から芝の庭に降りられるが、彝も制作に疲れては居間で体を休めながら、季節ごとに彩りを添える庭の花壇や、ウメ、ツバキ、ヒバ、キンモクセイ、ヤツデ、アオギリなどを楽しみ、体調の良いときには庭に降り立つこともあったであろう。
 アトリエで彝の命の炎を燃焼させ、居間から眺める庭から癒やされていたのであろう。このアトリエが彝のすべてだった。
 思いのほか、否、思った通り、質素なアトリエであった。いろいろなコトやモノのつまった部屋が、すべて作品にこめられて、アトリエには想いだけ残されているようだ。
 遺された作品の数々が、彝の喜びも悲しみも苦しさも痛みもすべて語っているのだろう。
 生きて生ききった37年だった。

※新宿区立中村彝アトリエ記念館=東京都新宿区下落合3-5-7
TEL:03-5906-5671
入館料=無料

中野 中
美術評論家/長野県生まれ。明治大学商学部卒業。
月刊誌「日本美術」「美術評論」、旬刊紙「新美術新聞」の編集長を経てフリーに。著書に「燃える喬木−千代倉桜舟」「なかのなかまで」「巨匠たちのふくわらひ−46人の美の物語」「なかのなかの〈眼〉」「名画と出会う美術館」(全10巻;共著)等の他、展覧会企画・プロデュースなど。

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