文=中野 中
(38) 桜さくら ── ハーストと西行
桜前線は北上し、わたしの桜の季節は終った。上野公園の都美術館へ行った帰りに、満開間近の花のトンネルをぶら歩きで楽しむつもりであったが、あまりの人出に驚き、花見をあきらめてしまった。
数日後、近くの神社の境内に桜を見に散歩の足を延ばしたが、すでに散り始めていた。風もなく静かに散る花びらに風情があって、それはそれでけっこう楽しめた。
わざわざ花見に出かけなくても、都心のいろいろなところで桜並木を楽しむことは出来る。わたしの画廊めぐりのコースなら、東京駅八重洲口から髙島屋の日本橋店の脇を抜けて昭和通りまで到る桜並木、あるいは京橋と銀座を境する高速道路沿いの八重桜の並木、コースをちょっと逸れれば、スケールの大小はともかくビル脇に咲く一樹の桜に出会える。ところがことしもそうした機会を得ることは少なかった。これもパンデミックで外出が減った故かも知れない。
そんな桜への渇きを癒やしてくれる展覧会がある。
六本木の国立新美術館で開かれている〈ダミアン・ハースト 桜(Damien Hirst, Cherry Blossoms)〉展(5月23日まで)だ。
ダミアン・ハーストは、1965年イギリスのブリストルに生まれ、84年からロンドンに在住。88年にグループ展「フリーズ」を企画し、90年代に「ヤング・ブリティッシュ・アーティスト(YBAs)」の一人として国際的に注目を集めた。30年以上にわたるキャリアの中で、絵画、彫刻、インスタレーションなど様々な手法を用い、芸術、宗教、科学、そして生と死といったテーマを深く考察してきた、と紹介されている。
ハーストといえばサメやヒツジのホルマリン漬けで、90年代イギリスのアートシーンを印象づけた、ショッキングなコンセプチュアルアートを思い浮かべる。次いで錠剤にイメージを得てカラフルな点を並べた“スポット・ペインティング”や薬品の空箱を並べた“薬品キャビネット”などが知られている。そしてこれらは、“死”を強くイメージさせてくれる作品群であった。
そのハーストが満開の桜を描いた。
ハーストの桜づくし
展覧会へ足を運んだのは平日の午前中であったが、入口の30分ごとに入場制限された列に、若い人たち(その多くはカップル)がけっこう立ち並んでいた。
会場はすべて桜図である。2018年から3年かけて107点の大作ばかりの「桜シリーズ」を完成。その中から会場の空間に合わせて作家自身が選んだ24点が並ぶ。そのすべてを花ばかりで埋め尽くし、展示後半になって枝がわずかに登場する。そしてわずかな空間はまるで約束事のように青い空なのである。画面には焦点がなく、斑点状の色彩がいっぱいに広がっている。
最大タテ5メートル、ヨコ7メートルからなる大作もさることながら、特徴的なのはその技法だ。それはジャクソン・ポロックらのアクション・ペインティング、さらにはマーク・ロスコらのカラーフィールド・ペインティングといった、戦後のアメリカ抽象絵画にもつながっており、またスポットやドリッピングによる絵の具の滴りの集積による手法は、印象派の画家が始めた筆触分割のように、混色をせずにそのままキャンバスに載せるため色彩の鮮やかさ(彩度)や明るさ(明度)を保つことが出来るのだ。会場内のヴィデオ映像では、ハーストがバケツに入った油絵の具を長い柄のついた筆ですくい取って、アトリエに並べ立てたキャンバスに向けて投げ飛ばしている場面も流していた。
これらの手法によって、塗ったのではない点滴の、盛り上がりも形も不揃いで、しかも秩序ある構成にはならず(もちろん計算や意図のもとに)、自由奔放で、かつ明るい画面が出来上るのである。
しかも大作である。描かれているのは花ばかりである。それらを見ているうちに、満開の桜の森に抱擁されているような、酩酊感に襲われるような気分にさえなる。
桜の季節に花をいっぱいに咲かせた展覧会を開催するとは、なかなか粋な企てである。
図録には、「5歳のとき、母が油絵で桜を描いていた」ことを思い出し、この記憶が「抽象画と具象画をつなぎたい」試みに挑むきっかけともなった、と語っている。
また、これらの桜も“死”はテーマだという。が、描きたいものを描きたいように描き切ったという、ハーストの解放された喜びと満足感を思いながら、そのとてつもないエネルギーにわたしは圧倒されるばかりだった。
西行と桜
桜は日本では、限られた命が人生の儚さとして早くから和歌にうたわれ、また散り際のいさぎよさが武士の死や大戦の特攻隊員の死のメタファーともいわれたりした。それやこれやを思い巡らしていると、西行のことが思いだされてきた。
日本人は誰もが桜が好きである。否、好きも嫌いもこきまぜて、桜にこだわりを持っている。等閑視できないのだ。
西行晩年の
願はくは花のしたにて春死なむ
そのきさらぎの望月のころ
が良く知られているのは、73歳で没したのが旧暦の2月であったという、出来すぎた話もあってのことだろうが、西行には花(桜)を詠みこんだ和歌が多い。
西行は御所(鳥羽院下北面)に仕える武士(左兵衛尉)であったが、23歳で出家し、仏道と作歌に精進した。陸奥や四国までなど長路の旅を重ね、草庵の生活と旅の体験をとおして独自の詠風を築き、“月と花の歌人”ともいわれる。
多くの歌人たちのなかでも、もっとも深く花に耽溺した西行の、花の歌を挙げればキリがないほど多いので止めておくが、その根底に崇徳天皇の生母である、17歳年上の待賢門院璋子とのかなわぬ恋があったとするならば、もう少し深掘りしたいが、ここはその場ではない。
最後に、能『西行桜』の一場面を紹介したい。
嵯峨野のひっそりとした草庵が花見客で騒がしくなるのを嫌った西行が、
「花見んと群れつつ人の来るのみぞ あたら桜の 咎にはありける」
と歌う。すると老いた花の精があらわれて、
「憂き世と見るも山と見るも ただその人の心にあり 非情無心の草木の 花に憂き世の咎はあらじ」
と答える。
──花には罪はない。自然にも罪はあるものか。汚れた水も濁った空気も、そこに生きている人たちの心の投影なのだ──
幽玄に散る花の中での西行と花の精の対峙。それは時空を超えた妖しい情景である。(了)
中野 中
美術評論家/長野県生まれ。明治大学商学部卒業。
月刊誌「日本美術」「美術評論」、旬刊紙「新美術新聞」の編集長を経てフリーに。著書に「燃える喬木−千代倉桜舟」「なかのなかまで」「巨匠たちのふくわらひ−46人の美の物語」「なかのなかの〈眼〉」「名画と出会う美術館」(全10巻;共著)等の他、展覧会企画・プロデュースなど。