展覧会

モネ 睡蓮のとき

会場:国立西洋美術館 会期:10/5(土)〜2/11(火・祝)

チケットプレゼント

モネ展(イメージ)画像
“印象派を超えた”モネ芸術の豊かな展開をたどる展覧会

東京上野の国立西洋美術館では、現在、企画展「モネ 睡蓮のとき」が開催されている。

印象派を代表する画家のひとりであるクロード・モネ(1840〜1926)は、一瞬の光を捉える鋭敏な眼によって、自然の移ろいを画布にとどめた。しかし、後年になるにつれ、その芸術はより抽象的かつ内的なイメージへと変容していく。
モネの晩年は、最愛の家族の死や自身の眼の病、第一次世界大戦といった多くの困難に直面した時代でもあった。そのような中で彼の最たる創造の源となったのが、周囲の木々や空、光が一体となって映し出される、ジヴェルニーの自邸の庭に造られた睡蓮の池の水面。そして、この主題を描いた巨大なカンヴァスによって部屋の壁面を覆いつくす “大装飾画” の構想が、最期のときにいたるまでモネの心を占めることになる。パリで開かれた第1回印象派展から150年となる、記念すべき2024年に開催される展覧会「モネ 睡蓮のとき」。その中心となるのは、試行錯誤の過程で生み出された、大画面の〈睡蓮〉の数々である。
世界最大級のモネ・コレクションを誇る、パリのマルモッタン・モネ美術館から、日本初公開となる重要作を多数含む約50点がこの展覧会のために来日。さらに日本各地に所蔵される作品も加え、モネ晩年の芸術の極致が紹介される。日本では過去最大規模の〈睡蓮〉が集う貴重な機会となるだけに、美術ファンにとっては見逃せない展覧会だ。

展示構成

第1章 セーヌ河から睡蓮の池へ

1890年、50歳になったモネは、7年前に移り住んだノルマンディー地方の小村ジヴェルニーの土地と家を買い取り、これをつい棲家すみかとする。それはまた彼が、同一のモチーフを異なる時間や天候のもと繰り返し描く、連作の手法を確立した時期でもあった。しかし、やがて画家の代名詞ともなるジヴェルニーの自邸の庭は、すぐにその作品へと結実したわけではない。1890年代後半に主要なモチーフとなったのは、モネが3年連続で訪れたロンドンの風景や、彼の画業を通じて常に最も身近な存在であったセーヌ河の風景であった。とりわけ、この時期に描かれたセーヌ河の水辺の風景では、しばしば水面の反映が形作る鏡像に主眼が置かれており、後の〈睡蓮〉を予見させる。

クロード・モネ《ポール=ヴィレのセーヌ河、ばら色の効果》画像

クロード・モネ《ポール=ヴィレのセーヌ河、ばら色の効果》 1894年 油彩/カンヴァス
マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

1893年、モネは自邸の庭の土地を新たに買い足し、セーヌ河の支流から水を引いて睡蓮の池を造成する。この “水の庭” が初めて作品のモチーフとして取り上げられたのは、それから2年後のことだった。さらに、池の拡張工事を経た1903年から1909年までに手掛けられたおよそ80点におよぶ〈睡蓮〉連作において、画家のまなざしは急速にその水面へと接近する。周囲の実景の描写はしだいに影を潜め、ついには水平線のない水面とそこに映し出される反映像、そして光と大気が織りなす効果のみが画面を占めるようになった。こうして、セーヌ河を流れる水は睡蓮の池へと姿を変え、晩年のモネにとって最大の創造の源となったのである。

クロード・モネ《睡蓮、夕暮れの効果》画像

クロード・モネ《睡蓮、夕暮れの効果》 1897年 油彩/カンヴァス
マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet / Studio Christian Baraja SLB


第2章 水と花々の装飾

装飾芸術がかつてない隆盛を極めた19世紀末のフランスでは、多くの画家たちが装飾画の制作に取り組んだ。モネもその例外ではなく、彼が初めて本格的な装飾画を手掛けたのは、1870年代の印象派時代にさかのぼる。やがて、1890年代を通じて連作の展示効果を追求する中で、睡蓮という一つの主題のみからなる装飾画の構想がその心に芽生えていった。

クロード・モネ《キスゲ》画像

クロード・モネ《キスゲ》 1914-1917年頃 油彩/カンヴァス
マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

1909年の「水の風景連作」展以降、後に白内障と診断される視覚障害の兆候や最愛の妻の死をはじめとする不幸は、モネの画業に一時の空白期間をもたらした。しかし、1914年に再び創作意欲を取り戻すと、かつて抱いた装飾画の構想に精力的に取り組み始める。当初は睡蓮のみならず、池の周囲に植えられた多種多様な花々をもそのモチーフとして想定していたのだろう。大の園芸愛好家であったモネは、さながらカンヴァスに絵具を置くように、その庭を色彩豊かな花々で彩った。なかでも、実現することなく終わった幻の装飾画の計画において重要な役割を担っていたのが、池に架けられた太鼓橋の藤棚にう藤と、岸辺に咲くアガパンサスの花。ところが、最終的にモネはそれらの花々による装飾の考えを放棄し、壁一面を池の水面とその反映によって覆うことを選ぶのだ。

クロード・モネ《睡蓮》画像

クロード・モネ《睡蓮》 1914-1917年頃 油彩/カンヴァス
マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet


第3章 大装飾画への道

「大装飾画(Grande Décoration)」とは、睡蓮の池を描いた巨大なパネルによって楕円形の部屋の壁面を覆うという、モネが長年にわたり追い求めた装飾画の計画である。最終的にパリのオランジュリー美術館に設置されることになるこの記念碑的な壁画の制作過程において、70代の画家は驚嘆すべきエネルギーでもって、水面に映し出される木々や雲をモチーフとするおびただしい数の作品群を生み出した。

クロード・モネ《睡蓮》画像

クロード・モネ《睡蓮》 1914-1917年頃 油彩/カンヴァス
マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

1914年以降の大装飾画に関連する制作を決定づけるものは、第一にその画面のサイズ。この時期の〈睡蓮〉は多くの場合、長辺が2メートルにおよび、1909年までに手掛けられた〈睡蓮〉と比べると、面積にして4倍を超える。巨大化した作品のサイズに応じてモネは新たに広大なアトリエを建設し、このアトリエで、戸外で描かれた習作をもとにしばしば幅4メートルにも達する装飾パネルの制作に取り組んだ。それは、自然の印象から出発して、その印象を記憶とともに内面化しつつ再構成する試みであり、いうなれば印象派絵画を超える挑戦でもあった。ごく少数の例外を除き、モネはこれら大装飾画に関連する作品のほとんどを生前に手放すことなく、1926年の死の間際に至るまで試行錯誤を重ねる。国立西洋美術館のコレクションの基礎を築いた松方幸次郎は、モネが唯一、その巨大な装飾パネルの一つを売ることを認めた相手であった。

クロード・モネ《睡蓮、柳の反映》画像

クロード・モネ《睡蓮、柳の反映》 1916-1919年頃 油彩/カンヴァス
マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet


第4章 交響する色彩

モネの絵画は、その色彩が生む繊細なハーモニーゆえに、同時代からしばしば音楽に例えられた。1921年に洋画家の和田英作が松方幸次郎らを伴いジヴェルニーのアトリエを訪れた際、〈睡蓮〉の近作をして「色彩の交響曲」と評したところ、モネが「その通り」と答えたという逸話も知られている。しかし、1908年ごろからしだいに顕在化しはじめた白内障の症状は、晩年の画家の色覚を少なからず変容させることになった。悪化の一途をたどる視力に絶えず苦痛を訴えながらも、モネは1923年まで手術を拒み、絵具の色の表示やパレット上の場所に頼って制作をおこなうことさえあったという。

クロード・モネ《睡蓮の池》画像

クロード・モネ《睡蓮の池》 1918-1919年頃 油彩/カンヴァス
マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

1918年の終わりごろから最晩年には、死の間際まで続いた大装飾画の制作と並行して、複数の独立した小型連作が手掛けられた。モチーフとなったのは、“水の庭”の池に架かる日本風の太鼓橋や枝垂れ柳、“花の庭”のバラのアーチがある小道など。これらの作品は、不確かな視覚にさいなまれる中にあって衰えることのない画家の制作衝動と、経験から培われた色彩感覚に基づく実験精神を今日に伝えている。画家の身振りを刻印する激しい筆遣いと鮮烈な色彩は、後に1950年代のアメリカで台頭した抽象表現主義の先駆に位置づけられ、モネ晩年の芸術の再評価を促すことになった。

クロード・モネ《日本の橋》画像

クロード・モネ《日本の橋》 1918年 油彩/カンヴァス
マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet


エピローグ さかさまの世界

「大勢の人々が苦しみ、命を落としている中で、形や色の些細なことを考えるのは恥ずべきかもしれません。しかし、私にとってそうすることがこの悲しみから逃れる唯一の方法なのです」。大装飾画の制作が開始された1914年に、モネはこう書いている。折しもそれは、第一次世界大戦という未曾有の戦争が幕を開けた同年のことだった。そして1918年に休戦を迎えると、時の首相にして旧友のジョルジュ・クレマンソーに対し、戦勝記念として大装飾画の一部を国家へ寄贈することを申し出る。その画面に描かれた枝垂れ柳の木は、涙を流すかのような姿から、悲しみや服喪を象徴するモチーフでもあったのだ。

クロード・モネ《枝垂れ柳と睡蓮の池》画像

クロード・モネ《枝垂れ柳と睡蓮の池》 1916-1919年頃 油彩/カンヴァス
マルモッタン・モネ美術館、パリ © musée Marmottan Monet

モネがこの装飾画の構想において当初から意図していたのは、始まりも終わりもない無限の水の広がりに鑑賞者が包まれ、安らかに瞑想することができる空間だった。それは、ルネサンス以来、西洋絵画の原則をなした遠近法(透視図法)による空間把握と、その根底にある人間中心主義的な世界観に対する挑戦であったとも言い換えられるだろう。画家を最期まで励まし続け、その死後、1927年の大装飾画の実現に導いた立役者であるクレマンソーは、木々や雲や花々が一体となってたゆたう睡蓮の池の水面に、森羅万象が凝縮された「さかさまの世界」を見出した。モネの〈睡蓮〉は、画家が生きた苦難の時代から今日に至るまで、人々が永遠の世界へと想いを馳せるよすがともなったのである。

[information]
モネ 睡蓮のとき
・会期 10月5日(土)〜2025年2月11日(火・祝)
・会場 国立西洋美術館 企画展示室
・住所 東京都台東区上野公園7-7
・時間 9:30~17:30(金・土曜日は21:00まで) ※入館は閉館の30分前まで
・休館日 月曜日、10月15日(火)、11月5日(火)、12月28日(土)〜2025年1月1日(水・祝)、1月14日(火)
※ただし、10月14日(月・祝)、11月4日(月・休)、2025年1月13日(月・祝)、2月10日(月)、2月11日(火・祝)は開館
・観覧料 一般2,300円、大学生1,400円、高校生1,000円、中学生以下無料
※心身に障害のある方および付添者1名は無料
※大学生、高校生および無料観覧対象の方は、入館の際に学生証または年齢の確認できるもの、障害者手帳の提示が必要
※12月12日(木)〜27日(金)、2025年1月2日(木)〜17日(金)は高校生無料観覧日(入館の際に学生証の提示が必要)
※観覧当日に限り本展観覧券で常設展も鑑賞可
・TEL 050-5541-8600(ハローダイヤル)
・URL https://www.ntv.co.jp/monet2024/

⚫︎この展覧会は、以下の会場に巡回します。
京都市京セラ美術館/2025年3月7日(金)〜6月8日(日)
豊田市美術館/2025年6月21日(土)〜9月15日(月・祝)

error: このコンテンツのコピーは禁止されています。