芸術の都・パリ。かつてこの地は世界の文化、特にアートの中心地であった。18世紀末から19世紀初めにかけて新古典主義が画壇を席巻し、19世紀前半にはロマン主義や写実主義が隆盛を迎え、19世紀後半には印象派、象徴派、ポスト印象派など様々な芸術潮流が花開いた。その後もフォーヴィスム、キュビスム、アール・ヌーヴォー、アール・デコ、シュルレアリスムなどが次々と勃興したが、第二次世界大戦後に冷戦構造の中でアメリカ合衆国が世界の中心となり、フランスの文化的な地位は相対的に低下。しかし、パリには長い歴史と伝統がある。この街では、今も多くの実力派アーティストが鎬を削っているのだ。現代フランス美術界での活躍が顕著なアーティストのインタビューとその作品から、パリの空に今も吹き続けるフランス美術の麗しい風が、どんなに魅力的なものかを探ってみたい。
海外アーティスト・インタビュー vol.1
テーラー財団会長 ジャンフランソワ・ラリュー
Jean-François Larrieu
──あなたの作品は、鮮やかな色彩が特徴的ですね。色彩にこだわっていらっしゃいますか?
ラリュー「ヴィヴィッドな色が大好きなので、自然と作品もそんな傾向になっているようです。子どもの頃から絵が好きで、今までずっと色彩とともに生きてきました。母がスペインの出身だということも、私の色彩感覚に影響を与えているのかもしれません」
──北京オリンピックの公式展覧会に参加されたことからもわかるように、フランス本国はもちろん、アジアでの注目度も高いようです。
ラリュー「オリンピックの時には北京はじめ、中国各地で作品を展示しました。私の作品は中国の記念切手にも採用されています。この7月にはソウルでの展覧会にも参加したんですよ。この展覧会では私にしては珍しく、白と黒で作品を描きました。マティスやロダンなど高名なアーティストの作品と一緒に展示されることは、非常にエキサイティングな経験でした」
───なぜアジアでの人気が高いのでしょうか?
ラリュー「自分ではよくわかりません。ただ、世界中にネットワークを展開しているオペラギャラリーの力が大きいと思います。このギャラリーは元々パリにあったのですが、今ではロンドン、ニューヨーク、香港、シンガポール、ヴェニス、マイアミ、ソウル、モナコ、ジュネーヴ、ドバイと全世界10ヶ国にギャラリーを展開しています。今でも〝芸術=フランス〟という意識は根強いようです」
──作品のテーマは何ですか?
ラリュー「その辺は東洋のアーティストと類似点があるかもしれません。私が描きたいのは、自分が創り上げた空想の世界。今ここにある現実よりもっと良い理想的な世界を、詩的に描きたいと思っています」
11歳で美術学校入学。
35歳でサロン・ドトンヌ会長に就任。
若き天才も今では、美術界の重鎮に。
───影響を受けた画家は誰ですか?
ラリュー「特に影響を受けた人はいません。好きな画家はいます。子どもの頃は印象派が好きでした。その後はミロ、カンディンスキー、パウル・クレーといった人たちが好きになりました」
───なるほど。ところで、今のフランスの美術状況をどう捉えていらっしゃいますか?
ラリュー「アーティストは流行を追いかけすぎてはいけない。しかし、流行を拒絶してもいけないと思います。私自身はビデオアートなどの現代美術も好きです。ベルサイユ宮殿での展示が賛否両論を巻き起こしたように、フランス人の中には村上隆に批判的な人もいるようですが、私は好きです。遊びの精神があって、とても興味深いアーティストだと思います。我々アーティストにとって、最も大切なのは好奇心。村上も、そして私自身も好奇心が作品に表われていると思いませんか?」
──あなたは単にアーティストとしてだけでなく、美術界の要職を務めてこられました。
ラリュー「ええ。テーラー財団の会長やサロン・ドトンヌの会長ですね。しかも、常にどこでも〝史上最年少〟という称号が私には付いて回ります(笑)」
profile
1960年タルブ市生まれ。1971年フランソワ・ヴィヨン絵画アカデミーに入校。1978年18歳で初の美術館展を開催。1987年グラン・パレ芸術家擁護委員会共同創設者となる。1990年サロン・ドトンヌ運営委員会メンバーに就任。1995年サロン・ドトンヌ会長に就任し、2004年まで同職を務める。2005年グラン・パレ歴史的サロン連盟会長に選出。また同年、テーラー財団副会長に就任。2006年「アール・アン・キャピタル」創設メンバーとなる。2008年北京オリンピック公式展覧会に出展。2010年テーラー財団会長に選出。これまでロシア、レバノン、日本、中国、台湾など世界各国で作品を発表。また、フランス、スペイン、ロシア、アメリカ、中国、香港、日本、シンガポール、台湾など多数の国で個展を開催。
※この記事は2011年10月11日に発行した雑誌「美術屋・百兵衛」No.19の記事を再掲載したものです。