工藤村正インタビュー
現在アメリカに在住している工藤村正だが、
今年1月11日〜2月10日までの約1ヶ月間、
東京・銀座に新しくオープンするギャラリーで
日本では久しぶりとなる個展を開催する。
その下準備も兼ねて来日していた工藤に
個展会場となる「REIJINSHA GALLERY, Tokyo」で、
昨年の10月半ばにインタビューを試みた。
画家本人が語った工藤村正の今、そしてこれからについて、
ここで紹介していこう。
サムライや軍人の血が、
工藤の身体には流れている。
──この「美術屋・百兵衛」という雑誌は、美術と地方文化を紹介する雑誌なんですが、工藤さんはお生まれになった福島についてどうお考えですか?また、福島独自の文化などで、影響を受けられたものがありますか?
工藤「確かに生まれは福島。阿武隈川上流にある川俣という土地です。ただ、小さな頃に東京へ移ったので、福島のことはほとんど憶えてないんです。大人になってから福島を訪ねたときの記憶はあるけど。自分のルーツがそこにあるという程度の認識なんです。
曾祖父が会津藩の剣術指南役を務めていた武士で、父は陸軍の軍人で剣道や乗馬など文武両道に秀でていた人。そんな勇壮な福島人の血を引いているせいか、僕自身もモノの考え方がとても過激で、性格的には大陸的なところがあるのかなと思います」
──なるほど、確かに工藤さんを見ていると、武士や軍人の面影がありますね。ところでいつ頃から画家になろうと思われたのでしょうか?
工藤「うーん、いつ頃だろう。子供の頃は考古学者か、探検家、あるいは科学者になりたいと思っていたような気がするな。ロケットの設計図を描いてはひとりで悦に入っていたことも。
ただ、確かに子供の頃からモノを作ったりするのは好きでした。というより、私は養子縁組なので、欲しいモノがあっても買ってもらえないから、自分で作らざるを得なかったという感じかな。災い転じて福と為す、ですね。
青森の小学校時代の親友の家が裕福で、彼はその頃から油絵を描いて、羨ましかったね。僕が絵を描くようになったのは、やはりディズニーや手塚治虫の夢のあるアニメーションや漫画だったり、とにかく想像創作が好きだった。
元々小学校の頃から書道を習っていて、水墨画なんかも描いたりしてました。書道ではいろんな賞を受賞しましたから、たぶん芸術的なセンスもあったのかな。僕が通っていた水茎書道院という教室では普段はひたすら臨書をするんだけど、週に1回だけ自分の好きなものを書いていい自由運書という時間があったんです。僕は自分で詠んだ短歌を水墨画と一緒に書いたりしましてねぇ。好きな書道が、ますます好きになりましたよ。
門下生は300人ぐらいいたのかな。その中からたった一人だけ『水茎会賞』という賞がもらえるんだけど、僕は14歳の時に『紫雲』という作品でこの一番欲しかった賞を獲ったんです。国際的な賞など、他にも大きな賞はたくさん貰ったけど、自分の中ではこの『水茎会賞』が一番嬉しかった。その頃は道場に行くこと自体が楽しくて、墨の香りを嗅いでいるだけで幸せだった。だから、賞をもらいたいとかいう欲も全くなかったですね。そんな無我夢中で書いた『紫雲』は自分でも良く書けた作品だったと思いますよ。今でも、この時に書いたものを超えることはできないんです」
「絵描きになりたい」
大志を抱いて15歳で上京。
──青森では、充実した少年時代を過ごされたんですね。
工藤「いや、そんなことはないですよ。東京育ちで津軽弁を知らなかったし、生き別れた母親を捜していた1年半の間学校には行ってなかったので、自分の名前以外は字も書けなかった。だから壮絶なイジメに遭って、何度死のうと思ったかわからないですね。でも、その時に気付いたんです。死ぬことは究極の選択。死のうと決心できるぐらいなら、自分が何でも決めればいいんだって。例えば、誰が何と言おうと、自分が何になりたいかなんてことさえ決めていいんだと。そこから強くなれたような気がしますね。
それに、書道を始めて、自分にも何かが成し遂げられるんだと分かったことは大きいですね。それまで誉められることがなかったから、書道で誉めてもらえるのがとても嬉しかった。誉められたおかげで、自分自身を伸ばせたんだと思います」
──そんな青森を15歳の時に離れ、上京されます。きっかけは何だったんでしょうか?
工藤「絵描きになりたいという思いが一番かな。校則にがんじがらめにされる高校生活が嫌になったということもあるし、早く独立したいという気持ちもあったけど。リュックを背負って、ギター一本抱えて。文字通りの家出少年ですよね。でも、懐は寂しかったけど、胸の中に秘めた夢だけは大きかった。実際には、夢を実現するまで、それからずいぶん長い年月が必要だったけど……」
閉鎖的な日本に見切りをつけ、
自由の国アメリカへ。
──画家として成功しようとして上京されますが、その後渡米されます。聞くところによると、日本の画壇の閉鎖性に嫌気が差したからだとか?
工藤「そう。東京に出て初めて公募展に応募しようと思って申込書を見たら、そこには “出身校” や “所属会派”、 “受賞歴” を記入する欄があるんですよ。書道の受賞歴ならいくらでもあるけど、絵ではゼロだったし、学歴は高校中退。誰にも師事せず、どの団体にも属していない一匹狼だったから、申込書に書けるのは自分の名前だけという有様でね。出展料が高いこともあって結局は出品しませんでした。後でその展覧会を観に行った時、こう思ったよ。『なぜこんな絵が特選なんだ』って。
そんなことがあって、決心したんです。『絵に自分の人生を賭けるのなら、リスクは大きいけど、チャンスも大きいアメリカに行こう』って。その頃に見たパンナム(Pan American航空)のポスターから受けた影響も大きかったかな。写真じゃなく、絵画なのに細部まで実にリアルでね。『こんな絵が描けるんだ。凄いな』って感じて、それがアメリカに対する憧れみたいなものと一緒になったんだと思います。で、32歳の頃に念願のアメリカ行きが実現したって訳ですよ」
書道で培った技を活かして、
自身のスタイルを確立。
──渡米当初はいろいろと苦労されたようですが、最終的にはアーティストとして成功されます。その理由を、ご自分ではどう分析されますか?
工藤「1980年に渡米した頃はテレビドラマの『SHOGUN』ブームで、日本に対する注目度も高かった。画商からも『日本人ならサムライやゲイシャが描けるだろう』と言われてね。自分では人物画は描きたくなかったけど、食って行くためには来た注文を受けざるを得なかった。そこで、浮世絵の本を買って、それを参考にして描き始めたんです。
とは言え、そんな簡単に歌麿のように描ける訳じゃない。かと言って、細密な写実画も描けない。アメリカで成功するにはオリジナル性がなければと考えて、辿り着いたのが藤田嗣治のようなスタイル。ただ、彼は技法書を残したり、人に伝えたりしてないから、自分で研究するしかなかった。フジタは乳白色の肌で有名だけど、描線も非常に特徴がある。日本の墨のような色調や書道の止めや撥ね。それに、面相筆を使って描いてる。その点、僕は書道の経験があるから、フジタの作風を参考に自由運書の自分の線描スタイルを確立した。それが成功に繋がったんでしょうね」
観る人が癒しを感じる作品を
描き続けていきたい。
──工藤さんが創作の際に最も重視されていることは何でしょうか?
工藤「もしかしたら、僕の考えは今の時流に反しているかもしれない。でもいつもこう自問自答しながら描いています。『これを観た人は安らげるだろうか? 癒しを感じるだろうか?穏やかになれるだろうか?』ってね。作品は画家の手を離れた瞬間に、それを手に入れた人の所有物になるわけだから、やっぱり観てプラスになるものでないとね。僕が描く作品には、よく凛とした女性が登場する。一本筋の通った、知的で色気のある、いわば昔の女性だね。包容力や美しさ、やさしさを秘めているような。こうした女性像は、現代女性が求める理想の女性像と重なっているのかもしれない。僕の作品のコレクターの70%以上が女性であるという事実が、それを雄弁に物語っているんじゃないかと思う。
創作している時間は、実に楽しい。たとえどんなに難しい絵を描いている時でもね。描く行為自体が楽しいというよりも、今自分が描いている作品を手にした人が喜んでいる光景を想像して楽しくなるんですよ。見知らぬ国で、見知らぬ人が、絵から伝わる癒しをシェアしてる光景を。作家冥利に尽きますよね。今の日本では絵を買うことは非日常的な行為。でも、アートは決して特別なものじゃない。個人的には、浮世絵のごとくもっと大衆化すべきだと思っています。家を新築したとか、個人的な記念だとか、絵を買う理由なんか何でもいい。どの絵を購入するか決める基準は、自分の生活にマッチしてるかどうか、好きか嫌いかだけ。今回日本で個展を開くことになったけど、ぜひ観に来てほしい。そしてお気に入りの一枚を見つけてもらいたいですね」
様々なチャリティーへの参加も
アーティスト活動の一環。
──ところで、東日本大震災の被災者支援のために「Artist Scramble」という組織を立ち上げられたり、また、阪神大震災の時には幕張メッセで行われたアーティストによる被災者救済基金に参加されています。チャリティーなどの社会的活動に積極的に参加されている理由は何でしょうか?
工藤「社会に対する恩返しというような意味合いが大きいかな。僕たちアーティストは、作品を購入していただく人、作家活動を支えてくれる人がいて初めて存在できるもの。だから、何か事が起きた時ぐらいは、みなさんに役立つことをしたいと思っているんですよ。アメリカでも『HEAL THE BAY』という海浜浄化運動に賛同し、招待アーティストとしてサーフボードにペインティグを施した作品を出品したりしています。
僕自身は、自分のことを『○○画家です』と特定したくない。僕はアーティストである以上、好きな時に好きな絵を描く。チャリティーなどの活動も、やりたいと思うからやるだけのこと。
昔の巨匠たちはいろんなジャンルの作品を手がけ、こだわらない創作活動をしていた。晩年には子どものような単純な絵に辿り着いた。最終的には僕もそんな無駄を全て削ぎ落とした絵が描きたいですね」
profile
1948年福島県出身。1961年全日本青少年書道展特別賞、1962年アジア親善書道展最優秀賞、1963年国際親善書道展最優秀賞、国際親善書初書道展金賞、日中国際書道展銅賞、その他多数の優秀賞を受賞。1980年渡米。1981年D.J.L.ギャラリー(ロスアンジェルス)で初個展開催。1983年ニューヨーク・アートエキスポに出展。1984年USA公募展入賞、全米の美術館で巡回展示される。1985年ロスアンジェルス・アートエキスポの公式ポスター制作。1986年ニューヨーク、メトロポリタン、オペラハウスのマダム・バタフライを制作。1994年青森県立図書館の新館落成に伴い壁画を制作。同年毎日新聞主催地方自治大賞・最優秀グランプリ賞のブロンズ像を制作。1996年ロスアンジェルスのUSC大学にて、特別講師として「禅と東洋芸術文化」について講義する。2001年東京美術倶楽部にて個展開催。2011年“Artist Scramble”を立ち上げ、東日本大震災チャリティー展を開催。
※この記事は2012年1月11日に発行した雑誌「美術屋・百兵衛」No.20の記事を再掲載したものです。
※工藤村正氏は2023年1月30日、事故のためお亡くなりになりました。生前のご功績を偲び、編集部一同心からご冥福をお祈り申し上げます。