文=庄司 惠一
第二章 異次元文明を支える日本文化(前回=2022年10月13日更新分より続く)
日本独自の和の装いの世界
◎着物(和服・呉服)
きもの(和服)は日本在来の衣服のことで、近年では日本における民族服とされ着物ともいわれます。和服は「和」の「服」すなわち日本の衣服という意味です。この言葉は明治時代に西洋の衣服すなわち「洋服」に対して従来の日本の衣服を表す語として生まれた再命名(レトロニウム)したものです。
着物は元来「着る物」という意味であり、単に衣服を意味する語でしたが、洋服が移入して以降「西洋服・洋服」と区別して「従来の日本の衣服」を「日本服・和(やまと)服」と呼ぶようになりさらに着物の語に置き換えられるようになったのです。現在では着物はもっぱら「和服」を意味し、日本で和服という言葉が生まれる明治時代よりずっと前の16世紀の時点で日本人が衣服のことを指して呼んだ着物(Kimono)が現在でいう和服を表す語としてヨーロッパに知られるようになり、今ではヨーロッパに限らず世界の多くの言語で日本で和服と呼んでいるモノをKimonoと呼んでいます。
Kimonoは日本の和服だけでなく東南アジア全般で見られる「前合わせ式の服」全般を指すこともあります。良く見られる韓国の「チョゴリ服」もその種類であり中国から朝鮮半島そして大和国へと伝わっていき着物のルーツになったといわれています。衣類を大きく分類するとヨーロッパの衣服のように身体を緊密に包む「窄衣型」と身体に布をかけて着る「懸衣型」の二つに分けられます。和服は後者であり「長着」を身体にかけ帯を結ぶことによって着つけています。
洋服は曲線で裁たれたパーツを組み合わせて立体的な身体に沿わそうと造形されるのに対し、和服は反物から直線で切り取ったパーツを縫い合わせた平面構成により造形。織機でも帯や着物の反物の幅は細幅であるのに対し洋服は広幅であり、それがネックとなり素晴らしい西陣織などが永らくほとんど洋服の生地に使われることはありませんでした。
■縄文時代…
石製や貝製の装身具の出土例はあるが衣服に関して、植物繊維などが考古遺物として残りにくいため実態は不明です。しかし、編布の断片やひも付き袋等の出土例があり麻・からむし等の植物繊維から糸を紡ぐ技術や出来た糸から布地を作る技術があったことがわかります。
■弥生時代…
縄文時代とほぼ同じですが、「魏志倭人伝」によって和人の着物は布を結び合わせている…とあることから推測できます。
■古墳・飛鳥時代…
古墳時代の墳墓から発掘される埴輪から当時の服装を知る貴重なことが分かります。この時代の服は男女ともに上下2部式であり、男性は上着とゆったりしたズボン状の袴で膝下を紐で結んでいます。
女性は上衣と裳(裾の長いロングスカート)姿です。7世紀末~8世紀初めに造られた「高松塚古墳」の壁画から飛鳥時代の貴重な当時の人々の服装が分かります。
■奈良時代…
大宝律令では朝廷で着る服が定められていました。
貴人の礼服…重要な祭祀
朝服…月1回の朝会
一般官人の制服…朝廷の仕事をするとき
■平安時代…
中期までは奈良時代とほぼ変わりはないですが、承和年間(834年~848年)の遣唐使の廃止により中国の大陸文化の影響を離れ日本独自の文化が盛んになっていきます。平安後期に登場した平安装束は時代的変化はあるものの基礎的な部分は現代にもキチンと伝わっています。それは皇室の行事や有名な十二単衣に表れています。特に京都の「カルタ始め式・葵祭・祇園祭・時代祭・三船祭」や大阪の「天神祭」などで見られます。
■鎌倉・室町時代…
庶民が着ていた水干(男子の平安装束の一つで、糊を付けず水を付けて張った簡素な生地を用いる服飾)が基になって直垂ができ鎌倉時代には直垂は武家の礼服になり、室町時代に入ると武家の第一礼装になります。女性用の衣服も簡素になり裳は短くなり袴へと転化し裳はなくなります。この後は小袖の上に腰巻をまとう形になり小袖の上に丈の長い小袖を着る「打掛」ができました。
■江戸時代…
前期は一層簡略化され肩衣と袴を組み合わせた裃がもちいられました。庶民に小袖が流行し、歌舞伎などの芝居、錦絵や浮世絵で役者の服飾が紹介され、庶民に人気となり模倣されていきます。帯結びや組紐が発達し、帯は後ろで結ぶようになりました。
後期は鎖国により絹が輸入されなくなり全体に地味になっていきましたが、女子は長い袂の流行から婚礼衣装の振袖が出来ました。
■明治・大正時代…
西洋人に接する機会が多かった人々の間では早くから洋服が定着しました。明治時代には洋服は主に男性の外出着や礼服であり、日常では和服が使用されていました。女性は和服が主で宮中でも小袿や袿袴でした。明治4年(1871年)に陸軍や官僚の制服が洋服と定められ洋服の学生服が男子学生の制服となります。女学校の制服が袴から洋服(セーラー服)になる例が増えていきます。
初めて制服としてセーラー服を採用したのは1920年(大正9年)に京都の「平安女学院」であるといわれています。
■昭和時代…
戦前・戦後は昭和15年(1940年)に国民服令が施行され男性用の衣服として国民服が定められました。
戦後、昭和20年(1945年)戦中の服制を含む明治以来の服装令が廃止されました。女性は和服(着物)が高価で着付けが大変なので安価で実用的な洋服に移っています。
■平成時代…
女性の和服は七五三・成人式・卒業式・結婚式といった冠婚葬祭時の着用がほとんどとなってしまいます。最近、インバウンド外国人にレンタル着物が大変人気で、日本人の若い女性にもレンタル着物が好評で特に京都ではレンタル着物を着ている女性を街中で見かける様になりました。
最近、京都の大学と西陣メーカーとのコラボで広幅の生地用の織機を開発し、広幅の生地が多く作られるようになり、パリコレクションや有名ホテルの内装に使われるようになりました。西陣の創業300年の「細尾」で社長が大手ジュエリーメーカーのイタリア駐在員だから発想が豊かなのでしょう。
着物(和服)の色々な技術は素晴らしいものがありますが、着物自体が最盛期の何十分の一の販売しかないので、この技術を現代の生活に活かせるようにしなければいけないと思います。洋服にオーダー服・プレタポルテ服・一般服・日常服(例―ユニクロ)などがあるように着物もシーンによって着られるようにすべきだと思います。ノーベル賞の授賞式での本庶佑先生の羽織袴の着物姿は小柄な日本人の凛とした姿を世界中に伝えました。
最近、着物姿の若い女性達に呉服とも言うがそれを中国の三国時代(184年~280年)の魏・呉・蜀の「呉」から由来すると知っていますかと聞くとウソ~・本当~・全然知らん~とのことでした-唖然・ビックリ。
呉服(和服用の織物の呼称の一つが和服=着物の一般名になった)は応神天皇時代に伝来したといわれ、江戸時代には「呉服店・呉服屋」の看板で商売をし現代でも「〇〇呉服店」「〇〇呉服」の看板が多く見られます。(続く)
前方後円墳は現代アートである
日本異次元文明論
庄司 惠一 著
発売:オクターブ/価格:本体3,500円+税
仕様:A5判・173ページ/発行日:2019年11月12日
ISBN:978-4-89231-211-3
庄司 惠一
MASA コーポレーション会長。
1939(昭和14)年、和歌山県田辺市生まれ、京都市育ち。
神戸商科大学(現・兵庫県立大学)卒。1972(昭和47)年、京都・五条坂に画廊「大雅堂」を開く。1986(昭和61)年、京都・祇園に画廊を移築オープン。2008(平成20)年8月から現職。