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[アーカイブ] 美術屋・百兵衛No.13(新潟県特集)より
越後のミケランジェロ 石川雲蝶

「美術屋・百兵衛」No.13表紙画像

雑誌「美術屋・百兵衛」No.13(2010年4月12日発行)新潟県特集より


彫刻家であり、建築家であり、画家でもある
江戸後期のマルチアーティスト 石川雲蝶

新潟県魚沼市、長岡市、三条市など「中越」と呼ばれる地方には、華やかで迫力ある装飾で彩られた社寺が少なくない。それらを手がけたのは、石川雲蝶という名の人物。彼は彫工でありながら建築にも携わり、また、絵師として見事な襖絵なども残している。いわばマルチ・アーティストであり、多くの職人を動かして寺社建築というプロジェクトを進めるプロデューサーでもあった。イタリアにおいて教会建築や天井画の傑作を残したことで知られるミケランジェロを思わせる。

多くの作品が残されているにもかかわらず、雲蝶本人については謎が多い。写真や肖像画もなければ、彼に関する記録もほとんど残っていない。そんなミステリアスな側面が、この名匠の作品をより魅力的に見せているのかもしれない。

雲蝶は幕末の1814(文化11)年、江戸雑司ヶ谷(現在の東京都豊島区)に生まれた。本名を安兵衛という。江戸彫石川流の彫物師として名を挙げ、苗字帯刀を許されたらしい。20歳の頃にはすでに彫刻の奥義を究めていたという話も伝わっている。

《鬼退治の仁王像》画像

西福寺開山堂階段脇《鬼退治の仁王像》(新潟県重要文化財)

雲蝶が越後国にやって来たのは32歳の時。同じく名工と呼ばれた小林源太郎とともに越後へ向かい、上野国との国境にある三国峠の三国権現社で金剛力士像の競作をしたようだ。その後、三条の酒井家に婿入りして、同地の石動神社や本成寺に傑作を残した。当時三条は鑿に代表される金物の町として知られており、「良い酒と鑿を終生与える」との条件で越後入りしたとの話も伝えられている。酒にまつわる逸話も多い。

迫力ある造形と躍動感、そしてモティーフをやさしく表現する繊細さと鮮やかな彩色。雲蝶の作品にはどれも、彼独特の世界観がダイナミックに表現されているのだ。雲蝶は1883(明治16)年に亡くなったが、死後130年近い時を経てもなお多くの人々を魅了し続ける彼の代表作「永林寺」と「西福寺(開山堂)」を訪ねてみよう。


曹洞宗 針倉山 永林寺

永林寺外観

永林寺本堂


五百有余年の歴史を飾る 激しく、迫力ある造形美。

永林寺の起源は16世紀前半に遡る。現在この寺が建つ根小屋の地を当時治めていた武将・多功氏が林泉庵第四世竹岩全虎を招請して開山した。遠く室町時代のことである。その後数百年の時を経て、江戸時代末期に老朽化した伽藍を再建することになった。そこで登場したのが、「越後のミケランジェロ」と呼ばれる石川雲蝶だ。

時の住職・円応弁成と雲蝶の出会いに関して、次のような逸話が伝わっている。伽藍復興に奔走していた住職が、ある日、金物類を求めて三条に出かけた。住職は雲蝶が仕上げた本成寺の彫刻を見て、「永林寺もこの名匠に任せたい」と考えた。無類の酒好き、賭事好きとの噂を聞いておそらく賭場に出向いたのだろう。そこにいた雲蝶に、「自分が勝ったら永林寺本堂にその力作を残してほしい。その代わり、金銭の支払い全てを引き受ける」という条件で大博打をした。結果は、住職の勝ちに終わる。そして雲蝶は1855(安政2)年にこの寺を訪れ、以後13年もの間、寺に宿泊しながら本堂いっぱいの作品を製作したとされている。

「永林寺」扁額画像

「永林寺」扁額と、本尊を守護するべく本堂正面に配置された欄間の龍。逆巻く波の上を泳ぐ龍の躍動感が表現されている。

永林寺に残された雲蝶作品を鑑賞すると、その特長が見えて来る。雲蝶は彫師としてだけではなく、絵師としての才も兼ね備えていたため、下絵、彫刻、彩色を1人で仕上げることができた。しかも、その構図は彼独自のもので、他に類を見ない見事なものである。作品の内容や種類も非常に豊富だ。立体感溢れる欄間から、浅彫り欄間、法具から絵画まで、雲蝶作品は多種多様であり、特に連作物には同じ構図がほとんど見あたらない。彫られた人物も多彩で躍動感に溢れ、一人一人の表情がそれぞれ異なるのも彼の特徴。優美にして華麗に空を舞う天女、雲蝶晩年の1881(明治14)年に完成された天の邪鬼をモティーフにした香炉台などは特に味わい深い。

この寺に足を踏み入れた者は皆、雲蝶の取材に訪れたイタリア人がその作品を観て「日本のミケランジェロ」と評したのが納得できるだろう。

永林寺《雲水龍》画像

永林寺《雲水龍》


松平家ゆかりの名刹に 相応しい作品群。

500有余年の歴史を持つ永林寺。この寺は古くからこの地の人々に曹洞宗の教えを伝えてきただけではなく、「葵の紋章」を掲げることを許された由緒ある寺でもある。

永林寺は家康の孫で越前北ノ庄藩主を務めた松平忠直、その長男で越後高田藩主の松平光長の位牌を安置している。1707(宝永4)年、光長が満91歳で亡くなった後、永林寺十世の全宅和尚が江戸の松平邸を訪れ、弔意を表した。すでに松平家は越後から備後国美作に転封されていたが、当時はまだ光長の老臣・本多知左ヱ門重時の嫡男・八太夫が、永林寺のある根小屋村を領地としていた。また、全宅和尚の人徳が広く知れ渡っていたこともあり、永林寺は両公の香華所(仏前に香と花を供える場所。転じて、追善供養を営む寺)とされ、忠直、光長の霊牌を安置し朝夕の回向を命じられると同時に、寺内での葵章の定紋使用が許可された。

永林寺本堂襖絵画像

永林寺本堂襖絵

江戸時代は「本家より良い家を建ててはいけない」という風習があり、なかなか再建の許可がおりず、幕末の伽藍復興も名目は「両公の位牌堂を建立する」というものだった。「葵の紋章」の威光があったからこそ、100点以上もの雲蝶作品がここに残されているのかもしれない。

曹洞宗 針倉山 永林寺
・住所:新潟県魚沼市根小屋1765
・TEL:025-794-2266
・URL:https://eirinji.jp
・交通:JR上越線「越後堀之内」駅より車で5分

 

曹洞宗 赤城山 西福寺

西福寺外観

西福寺開山堂(正面)、本堂(右)


雲蝶の最高傑作が ここにある。

魚沼市大浦の西福寺は室町時代後期の1534(天文3)年に、芳室祖春大和尚によって開かれた曹洞宗の寺院である。その後1801(享和2)年には、十八世住職・禅翁実参大和尚によって本堂が再建された。現在その本堂の左手にあるのが開山堂と呼ばれる建物で、西福寺二十三世の蟠谷大龍大和尚によって建てられた。

開山堂とは、寺を開いた初代住職を祀る御堂のこと。西福寺開山堂では開山・芳室祖春和尚と曹洞宗の開祖・道元禅師が中央に、さらにその周囲にはこの寺を守って来た歴代住職が祀られている。この開山堂は黒船来航の1年前に当たる1852(嘉永5年)に起工され、江戸幕府がアメリカ・イギリス・フランス・ロシア・オランダの五ヵ国それぞれと修好通商条約を締結する1年前の1857(安政4)年に完成した。建築様式は鎌倉時代禅宗仏殿構造で、屋根は茅葺き二重層、上層部が入母屋造りとなっており、唐破風向拝を有している。

《道元禅師猛虎調伏の図》画像

西福寺開山堂天井の大彫刻《道元禅師猛虎調伏の図》

堂内は、ここも幕末の名匠である、石川雲蝶の素晴らしい彫刻と絵画で飾られている。道元禅師を題材にした作品が多く、特に堂内の天井三間四方全面に施された迫力ある彫刻「道元禅師猛虎調伏の図」の透かし彫りの繊細さと極彩色の鮮やかさに、観る者は感動を覚えずにいられないだろう。雲蝶の作品は開山堂だけでなく、本堂にも多数残されている。大縁(廊下)の床の埋木や襖絵、書院障子など、堂内のあちらこちらで誰もが認める名作から意外な逸品までを目にすることができる。

雲蝶は、その素晴らしい作品の数々ゆえに、日光東照宮の「眠り猫」で有名な左甚五郎(1594〜1651年)。架空の人物との説がある)にも匹敵する彫刻の名手であると謳われている。西福寺に残された雲蝶作品は新潟県の重要文化財に指定されている。その見事な出来栄えは日光東照宮にも引けを取らないことから、西福寺・開山堂は、またの名を「越後日光開山堂」と呼ばれている。

《道元禅師と白山大権現》画像

西福寺《道元禅師と白山大権現》


鑿を鏝に代えて 表現した 鮮やかな絵物語。

西福寺二十三世・蟠谷大龍和尚が、開山堂の建立を思い立ったのは、この雪深く貧しい農村地域の、人々の心の拠り所となる場所を建てたいという思いからだった。当時30代前半だったこの若き住職は、釈迦や道元の教えこそが人々の心を豊かにし、幸せに導くと信じていた。そしてぜひこの開山堂に道元の思想や世界観を再現したいと考えたのだ。そこで白羽の矢が立ったのが、すでに三条の本成寺や栃尾の貴渡神社の作品で評判になっていた石川雲蝶。39歳と、ちょうどこの名匠の脂が乗り切った頃である。

歳の近い二人は、すぐに意気投合した。開山堂にかける熱き仏道心を住職が語れば、雲蝶はその思いをよく理解し、彫刻という形にして見事に表現した。雲蝶にとってもこれだけの大仕事を自分一人に任せられるのは、初めての経験である。これまでに身に付けた技と経験を思う存分に発揮して、後世に残る作品群を完成させ、その名を世に知らしめた。大龍和尚との出会いが、雲蝶の人生に大きな影響を与えたことは想像に難くない。

《道元禅師と一葉観音様》画像

西福寺開山堂内階段上 両面彫刻《道元禅師と一葉観音様》(部分/新潟県重要文化財)

しかし、貧しい農村地域に、宗教性と芸術性の高い開山堂を作ることは並大抵なことではない。経済的な問題をはじめとする大きな障害、苦悩が年若いこの住職に降りかかってきたことだろう。大龍和尚は、開山堂の落慶式に導師を務めることなく、西福寺住職の座を追われ、隠居として他寺へ追いやられてしまったのである。  しかし、二人の交流はその後も続き、西福寺を出た後の大龍和尚が仏行に励んだ正円寺には、雲蝶が彫った勇壮かつ慈愛にみちた仏像の数々が祀られている。

大龍和尚の仏道にかける思いと、雲蝶の実直な人柄と確かな技の合作である開山堂の彫刻。二人の素晴らしい出会いから生まれた名作を観れば、必ず熱い心が伝わって来るだろう。

《道元禅師と開山・芳室祖春大和尚》画像

西福寺《道元禅師と開山・芳室祖春大和尚》

曹洞宗 赤城山 西福寺
・住所:新潟県魚沼市大浦174番地
・TEL:025-792-3032
・URL:https://www.saifukuji-k.com
・交通:JR上越線・上越新幹線「浦佐」駅より車で10分

 

その後の石川雲蝶

永林寺、西福寺開山堂の大作がかなりの評判を呼んだのだろう。これ以降あちらこちらの寺社から依頼の声がかかり、雲蝶は名実ともに越後の名匠となっていく。しかし、残念なことに彼の作品は残っていても、雲蝶自身の写真や似顔絵、性格などを記した書面など記録に残るものは何もない。雲蝶の住まいは1880(明治13)年の三条大火で全焼し、雲蝶の菩提寺である本成寺も1893(明治26)年に火災に遭い、雲蝶の作品や記録は焼失してしまった。

1883(明治16)年の雲蝶死去から121年後、新潟中越地震が発生した。多数の雲蝶作品を持つ永林寺も半壊の被害を受けた。そこで現住職の佐藤憲雄は、復興のために取り外すこととなった作品を東京で展示する「石川雲蝶展」を開催し、大成功を収めた。この成功によって雲蝶ブームが到来。魚沼市や新潟県は石川雲蝶を観光の目玉にし、JR東日本のデスティネーションキャンペーンでも取り上げられた。

《孔雀遊戯の図》画像

西福寺本堂 《孔雀遊戯の図》(新潟県重要文化財)

※この記事は2010年4月12日に発行した雑誌「美術屋・百兵衛」No.13の記事を再掲載したものです。その後の調査研究により新たに発見・確認された事実がある可能性があります。また、雲蝶作品の観覧方法等についても変更されているかもしれませんので、鑑賞を希望される方は、各寺院までお問合せください。

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