コラム

美のことごと -48-

文=中野 中

(48) シンプル生活と〈心と知〉のはざま

調布市に転居して半年余が経つ。何人かの人から“都民”になったんですね、と言われて、そういうことか、と生半可に納得したりもした。
それにしても、半世紀近く過ごした土地と戸建ての家から、縁も所縁ゆかりもない土地で団地住まいになるとは、想定外であった。
転居先選びは娘にほぼ任せっぱなしであったが、齢80を超えた一人住まいの男が思い切ったものだと、今さらに思っている。今年の10大事件を挙げるならば、だんとつ1位である。いや、生涯でもトップ事件になるであろう。とにかく溜まりに溜まった心身と生活の垢とゴミの仕末の大変なこと、まったくもって疲れ切った。よく寝こまなかったと自分をほめたいくらいだった。
転居して半年余、考え方も日常生活もきわめてシンプルになった。そうならざるを得ないし、転居の覚悟をした時にすでにそれを願っていた節があった。
知人の多くは言う。“娘さんといっしょで良かったですね”と。確かに離れて住む娘の身にすれば、老親の身が常に気がかりであったろうし、わたし自身にも同居の安心感がある。

すべてにシンプルを心掛けているつもりではあるが、それにしても忙しい。といって仕事が増えているわけではない。要するに能率が悪く、いま風に言えば“コスパ”が落ちているからであろう。
公募展、画廊の個展、グループ展、美術館や博物館、これらに派生する諸々は、すべて足で稼ぐしかない。その上、自分の企画展が両手にあまる。しかるにその体力がさすがに右肩下がりを描いている。結果、デスクワークは追い込まれる。その上、体力が落ちて根気が続かず、集中力も削がれる。頭の抽き出しもさびがきてママならない。
が、それも歳なりであれば、少しも焦ることはしない。自分で工夫し、努めて、下降線をゆるやかにすることだ。どこまでが許容線なのか、いずれ引導が渡される。
しかしながら、あらためて言うまでもないが、忙しく仕事に集中できるとは、何と幸せであろうか。幸い病気もなく(医者嫌いで定期検診も受けないから病名はないだけのことだが)、日常生活の妨げになる痛みなどの不都合はない。
ありがたいことだ。丈夫な体をくれた両親に、そしてすべてに感謝である。

東京・銀座中央通りにて(筆者撮影)

絵(彫刻、工芸等々)を観ることがわたしの仕事のすべての礎である。執筆対象になる、ならないに関わらず、いまのアートシーンを幅広く観て感じることが、バックグラウンドとなる。その貯蓄が厚いことが、わたしの財産となる。
そのはずだが、すでに書いたように抽き出しが錆ついてしまっているのが、アアー情けない(弱きを吐くな、と自分に激‼︎)。
右に“観て感じて”と書いた。その通りで、近年のわたしは感性、感覚を現場(ギャラリートーク等でも)では大切にして、理屈、理論づけは極力避けている。わたしの琴線とまでは言わないが、少なくても心に小波を立てれば(共鳴・共感あるいは反撥・反感も)それの作品の検証(後付け)をしなければ、作品に対して不遜・失礼であろう。
感性・感覚について、少しく理屈っぽく検証してみたい。

〈感性(sensibility)〉
① 外界の刺激に応じて感覚・知覚を生ずる感覚器官の感受性。
② 感覚によって呼び起こされ、それに支配される体験内容。従って感覚に伴う感情や衝動・欲望をも含む。
③ 理性・意志によって制御されるべき感覚的欲求。
④ 思性(悟性的認識)の素材となる感覚的認識。

〈感覚(sensation : sence)〉
① 光・音や機械的な刺激などを、それぞれに応じて対応する受容器が受けたときに経験する心的現象。視覚・聴覚・味覚・臭覚・皮膚感覚・運動感覚・平衡感覚・内蔵感覚などがある。
② 物事を感じとらえること。また、その具合。
③ (接尾語的に)あたかも……のような感じである意。
(「広辞苑」第6版より)

右のようなのだが、きわめて微妙・繊細で、分かるようで分からない。
わたしなりに言えば、〈感性〉はこれまでの折々の感性に、いまの瞬間に得た〈感覚〉を合わせ重ねる。いままでの人生で感じ得てきたことを包含的に総合した感世界とでも言えば良いだろうか。
つまり、人一人ひとりの人生、それぞれ生き方が固有であるように、いま眼前にある絵に喚起された心の小波が、その絵がわたしに向けた描き手のメッセージなのである。もちろん、わたし固有の受けとめであって、他の誰とも違うし、誰の受けとめもすべて等価であろう。
というわけで、作品とこうして対峙するようになってからは、とても素直になって肩の力も抜け、ゆったりと美感が広がったように思っている。しかる後に、知(頭)を作動させるならば、より作品を深く理解することによって心と頭とのあわいに得も言えぬ味わいが生まれ出てくるに違いない。
もっと言えば、作品を通して他人である画家と自分の両者の人生が接点を持つことになろう。
絵は多くのことを教えてくれ、わたしは絵にたくさんのことを学んだ。
もう少し長く絵を観歩いていたい。シンプル生活の今日この頃のわたしです。

2023年開催の「中野中アートランダムコレクション」の様子

中野 中
美術評論家/長野県生まれ。明治大学商学部卒業。
月刊誌「日本美術」「美術評論」、旬刊紙「新美術新聞」の編集長を経てフリーに。著書に「燃える喬木−千代倉桜舟」「なかのなかまで」「巨匠たちのふくわらひ−46人の美の物語」「なかのなかの〈眼〉」「名画と出会う美術館」(全10巻;共著)等の他、展覧会企画・プロデュースなど。

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