熱海に降り立つたびにその呑気さに感動する。これから寒さが本格化するであろう1月末。我関せずと素知らぬ顔で桜を咲かせ始め、2月の震える寒さともに満開を迎える。この街はそういう街で、そういうところがとてもいとおしい。それゆえに人はこの地にバカンスを求めてやってくるのかもしれないと思う。
正月から東京の名画座で清水宏監督の『簪』という傑作映画を観た。ひと夏のバカンスを求め、山のしなびた温泉宿に泊まりに来た一癖ある客人たちとともに、笠智衆演じる青年が風呂場に落ちていた簪で怪我をしてしまったことから始まる群像劇だ。青年は、心配する客人たちの言葉をよそに、簪で怪我をしてしまったことに対し、「情緒が足の裏に突き刺さった」という名セリフを残す。正月からハッとした。風呂場に落ちている簪が足に刺さり宿泊を延期することになる。バカンスで訪れた宿で、災難であろうに、情緒すら感じると話す。その当たり前の豊かさは本当に見事で、一点の曇りもなく天晴れだった。
バカンスとは何かとよく思う。終わることを前提とした時間のこと。日常もロングショットで思えば終わることを前提とした時間であることに変わりはない。それでも「ひと時」だと区切られた時間を実際に体感することで、人生に終わりがあることをあらためて実感しているのかもしれない。それゆえに人はバカンスを求めるのだろうか。
3年と少し暮らした山を下りて、8年ぶりに東京の街に戻った。日常と呼ばれるものが板についた街並みが広がっている。山も見えず海もない。それでも目の前に流れる川は、私の記憶に棲みついた山や海へと広がっていく。どの街に暮らしても人は同じように生きていて、同じように日々を暮らしている。バカンスの都に暮らしたおかげで、日常がよりくっきりと輪郭を示している。熱海を離れる日に、三宅唱監督の『夜明けのすべて』を観た。瀬尾まいこの小説を原作とした映画だ。知る由もない他人の苦しみや想いに寄り添う、日々の小さな光を映した希望のような映画だった。
よく、映画を観たり美術館に行ったりすることを、現実逃避や非日常で癒されようというような趣旨のものを見かけたりする。アートとは非日常的な、凡人とは違う天才的な人たちが生みだすものというような感覚を持っている人たちが多いような気がする。私にはとてもそんな風には思えない。
現在地を確認するために非日常がある。アートも常にそのためにあると思う。日常とかけ離れたところにあるものではない。バカンスの積み重ねが日常をつくる。だからこそ、いま自分が何を求め、何をしているのか忘れてしまいそうな時に人はバカンスを求める。そうして「いま」という時を思い出す。風呂場に落ちている簪に情緒を感じることが出来るよう、これからも日々を重ねていきたいと、そう思う。新しい東京の住処にて。
ヤマザキ・ムツミ
ライターやデザイナー業のほか、映画の上映企画など映画関連の仕事に取り組みつつ暮らしている。東京生活を経て、京都→和歌山→熱海へと移住。現在は再び東京在住。