特集 工藤村正
虚心坦懐に森羅万象を描き残し、大胆さと繊細さで人を魅了する
日本美術界の基準では量りきれないアーティスト。
工藤村正という男。
工藤村正、大きな男である。
その印象は、180㎝を超える長身だけから来るのではない。
15歳で故郷を飛び出し、32歳にして無一文で渡米したという
破天荒な人生からも器の大きさが感じられる。
アメリカでの成功ぶりも、まさにビッグだ。
オリバー・ストーンやビル・クリントンなど錚々たる著名人が、
彼の作品をこぞってコレクションするほど。
一方、その作風はかなり繊細で、東洋の神秘を感じさせる。
そのアンバランスさが、工藤村正の魅力なのかもしれない。
不遇だった幼少期。
1948(昭和23)年、工藤村正は福島県で生まれた。曾祖母は坂本龍馬の本家筋に当たるという。工藤の風貌に凛としたサムライらしさが漂っているのは、こうした背景があるからかもしれない。祖母は会津近辺では最も名の知られた芸者で、芸事全般に達者だった。芸術的な才能は、この祖母から受け継いだものだろう。
生まれて間もなくして、工藤は家族とともに福島から東京に移った。日頃から忙しく、あまり家に寄り付くことはなかった父だが、手広く事業を営んでおり、比較的裕福な家庭だった。しかし、代々木上原での何不自由もない暮らしは、彼が幼稚園の終わりの頃に一変する。事業に失敗した父が破産し、両親は離婚。工藤は姉と一緒に、再婚した父に連れられ、小田原に移った。しかし、義理の母親との生活は、幼い子どもには決して楽しいものでなかった。おそらく義母にとって、血の繋がっていない二人は邪魔者だったのだろう。年端も行かない子どもを火箸やキセルで殴ったり、満足な食事を与えなかったりした。辛い暮らしに耐えかねて、少年は姉と家を出て、実母を探そうとした。しかし、見つけることはできず、連れ戻されてしまう。待っているのは、以前よりももっと厳しい折檻だ。
そのうち、幼い弟だけでも実母のもとに預けようという話が上がった。しかし、姉弟一緒でなければ嫌だと、二人で母のいる青森に向かう。苦労して再会したものの、母は再婚。嫁ぎ先に付いて行ったが、そこで歓迎されることはなかった。少しでも嫌われないようにと、人の顔色を見て行動するようになるのも仕方のない話だろう。
書道の才能を発揮した少年時代。
津軽弁が飛び交う中、ただひとり東京弁で話す工藤は異質に見えたのだろう。彼は、小学校でもいじめの対象となった。しかし、そんな彼にも親友と呼べるような友達ができる。おそらく悪気はなかったのだろうが、その親友の次の一言が工藤の自尊心を傷つけ、そして発奮させた。
「お前の字は下手だな。ボクは書道3級だから、上手いだろ」
辛抱だけの子供ながらにもプライドが傷ついたのだろう。
工藤は母親に懇願して書道塾「水茎書道院」に通うことになった。そこで出会ったのが、生涯最大の恩人とも言える間山陵風だ。師弟の関係、しかもまだ幼い工藤に対し、間山はまるで大人に接するような真摯な態度で臨んだ。書道の技術を教えるだけではなく、工藤が持っている良い面を引き出してくれる素晴らしい師であった。その教えに感激した工藤は、週に3度行くことになっていた塾に、毎日通った。子ども向けの教室がない日には大人の中に交じって、ひたすら真剣に目を凝らしていた。こうした努力が実を結び、入塾から1年半で初段に、小学校6年生の時には6段に昇段。さらに13歳で日本青少年書道展特別賞、14歳でアジア親善書道展最優秀賞、15歳の時には国際親善書道展最優秀賞などの大きな賞を受賞するまでになった。
塾では塾生の作品の中から優秀作が貼り出され、工藤の作品も当然のように毎週選ばれていた。しかし、ただ一度だけ貼り出されないことがあったという。その理由を間山に尋ねたところ、こう言われた。
「大人の真似をするな!」
知らず知らずのうちに、師や周囲の大人に媚びたような作品を書いていたのだろうか。工藤はこの出来事を機に、人に媚びることをやめた。
ひとつの出会いが、拓いた画家への道。
中学卒業後、青森県内でも有数の進学校に進んだ工藤だが、1年の途中で中退。校則に縛られるのが嫌だったこと、一日も早く自分で稼いで自由を手にしたいという思いが募ったことがその理由だ。15歳の工藤が目指したのは東京。そこで彼は、皿洗いやコック、板前、バーテンダー、ギターの弾き語りなど様々な仕事を経験する。
18〜19歳の頃、工藤は当時日本一のフランス料理店と言われた東京會舘で働きながら、暇を見つけては絵を描く日々を送っていた。青森時代から描き続けていたが、本格的に学んだことはない全くの自己流だ。それでも若さ故の大胆さからか、彼は銀座の画廊を回っては自分の絵を売り込んだ。しかし、美大出身ではなく、美術団体に属さず、高名な画家の弟子でもない工藤の作品をまともに取り合ってくれる者はいなかった。
ある日、大きな転機が訪れた。たまたま訪れた銀座の画廊で、見慣れた青森の風景が描かれた作品に出会ったのだ。その個展を開いていた画家の名は、青木憲一。工藤はすぐさまその画家に弟子入りを申し出る。青木の答えは、弟子は取らないが絵を見てあげようというものだった。後日、工藤は自分の作品2枚とクールベの模写1枚を持って、待ち合わせ場所の上野に向かった。
「僕は学校を出てから銀座で個展を開くまで15年かかった。でも、君なら5年でできるよ。ごまかしの効かない、大きな絵を描き続けなさい」
こうアドバイスした後、青木は工藤を画材屋に連れて行き、高価な絵具や画材を買い与えてくれた。このたったひとつの出会いがなければ、いつの間にか絵の道を諦め、画家としての工藤村正は存在しなかったかもしれない。
アメリカンドリームを手に入れた日本人画家。
1980(昭和55)年、工藤は32歳で渡米する。特に勝算がある訳ではなかった。子どもの頃から海外へ出たいという思いがあり、ディズニーのアニメやハリウッドの映画を通じてアメリカ的な公平さに憧れを抱いていた。血縁などには関わりなく、努力したものが報われるのだと。ただ、画家としてのチャンスはなかなか訪れなかった。それでも工藤は投げ出さず、生活費を稼ぐために金のかからない水彩画を描き続けた。
芸術に通ずるパートナーとの出会いが、彼に大きなチャンスをもたらした。ハーバード大学大学院で美術史を学び、世界最大のオークション会社サザビーズに勤めたこともある彼女は、工藤の絵をひと目見てその才能を見抜く。プロデューサーとしての彼女は有能だった。工藤は彼女と複数の画商との契約をまとめ、アメリカ最大手の版画の版元との専属契約まで結んだ。その後、当時のロナルド・レーガン大統領が主催する展覧会にも出品できるようになり、その作品をハリウッドスターなどの著名人がこぞって買い求めるほどの人気アーティストとなったのである。
工藤の作品の人気の秘密は、大胆な構図と東洋的な繊細さにある。彼は書道で培った独特な描線による「ラインドローイング」と呼ばれる手法に開眼。幼少時代から培ってきた書の技法と精神が、アーティスト工藤村正の原点だった。
著名所蔵家の数々(順不同、敬称略)
■ホワイトハウス(アメリカ)■プリンス・チャールズ・デ・リーン(ベルギー王室)■プリンス・ハムード・スワド(サウジアラビア王室)■ロナルド・レーガン(元アメリカ大統領)■ビル・クリントン(元アメリカ大統領)■クリントン・ライブラリー(クリントン財団)■オリバー・ストーン(映画監督)■フランシス・フォード・コッポラ(映画監督)■ラウル・ジュリア(俳優)■バート・レイノルズ(俳優)■バート・バカラック(作曲家)■ケニー・ロジャース(歌手)■ライオネル・リッチー(歌手)■トニー・ベネット(歌手)■マイケル・ジャクソン(歌手)■ジャネット・ジャクソン(歌手)■オリビア・ニュートンジョン(シンガーソングライター)■マーク・アントワ(ギターリスト)■パコ・デ・ルシア(ギターリスト)■フィリップ・トルシエ(元ワールドカップ監督)■大倉 正之助(能楽囃子大倉流)■なかにし 礼(直木賞作家、作詞家)■山本 耀司(ファッションデザイナー)■鳥居 ユキ(ファッションデザイナー)■川島 文夫(美容師)■三国 清三(オテル・ド・ミクニ)■14代 武蔵川親方(元相撲協会理事長)■岩城 滉一(俳優)■真田 広之(俳優)■イッセー 尾形(俳優)■石田 純一(俳優)■長沢 純(歌手)■桑名 正博(歌手)■谷村 新司(歌手)■吉 幾三(歌手)■デーモン閣下(歌手)■志村 けん(タレント)■中山 秀征(タレント)■木村 明子(獏エンタープライズ)
※この記事は2012年1月11日に発行した雑誌「美術屋・百兵衛」No.20の記事を再掲載したものです。
※工藤村正氏は2023年1月30日、事故のためお亡くなりになりました。生前のご功績を偲び、編集部一同心からご冥福をお祈り申し上げます。