木々の間から桜がぽこぽこと顔をのぞかせ、山が春の訪れを知らせていた。4月の柔い光に包まれながら私は、「正しさ」についてずっと考えを巡らせている。近年はすっかり、言葉をつづることに、公の場で発言をするということに、戸惑い・緊張を強いられる場面が増えたように感じる。“ポリコレ”(political correctness/政治的な正しさ)という言葉もよく耳にするようになった。それがいいかどうかという事とは別として、どこか常に、何者かによるジャッジの元に晒されている時代というような感覚がある。
まだ冬の厳しさの残る2月。マーティン・マクドナー監督の『イニシェリン島の精霊』(2023年1月27日より劇場公開/4月13日現在、ディズニープラスのスターで見放題独占配信中)という映画を観た。舞台は1923年、アイルランドの孤島・イニシェリン島。遠くに見える本土からは日々、内戦の炎が上がっている。妹のシボーンと二人で小さな島に暮らすパードリックが、親友だと思っていたコルムからある日突然、絶縁を告げられてしまうところから物語はスタートする。
田舎の小さなコミュニティの話とも捉えられたし、戦争の話でもあったが、私には、互いの価値観の違いを巡る不毛ないざこざの話に映った。人間関係の中でいつ誰にでも起こり得る、ごく身近なテーマであることが、この物語を普遍的にしていたように思う。
おそらく齢50は過ぎた頃だと思われるコルムは、残された時間を自分の芸術活動に捧げたいと告げる。2人でパブで酒を交わしながらくだらない話を続けたいパードリックには到底理解できない。と同時に、その事への拒絶はまるで自分を否定されたかのようにも感じられ、受け入れがたかったのだろうと思う。自分の価値観への否定=これまでの自分の人生の否定である、と感じているようだった。
「正しさ」のほとんどは、それぞれの価値観によって形成されていると思う。お互いの価値観(ひいては存在)の正当性の証明。戦争もしかり、争いとは日常の小さな火種から始まり、埋められない溝へと容易に発展していく。そしてなによりその争いの不毛さをも、見事に映していた。
アートは、「正しさ」とは対極にある。正解もなく、正義もない。時代は変われど、いつの世もそうであってほしいと思う。それぞれの表現(価値観)がその大前提の上で成り立ち、許容されている。その多様性こそが醍醐味であろうとも思う。アートに触れたいと思うのは、その正しさを問う前に多くの他者をひたすら受け入れたいと思うからでもある。
表現の自由はこの倫理社会のなか、どうなっていくんだろうかとますます思う。私が正しいと思うこと(価値観)は、常に他者を傷付ける可能性をはらんでいる。そのあらゆる可能性を考えた上で、表現は、私たちは、自由であるまま存在していられるのだろうか。山の上で、ひたすら伸びやかに鳴くホトトギスの声に包まれながら、考え続けている。
ヤマザキ・ムツミ
東京生活を経て、京都→和歌山へと移住。現在は熱海在住。ライターやデザイナー業のほか、映画の上映活動など映画関連の仕事に取り組みつつ、伊豆山で畑仕事にいそしんでいる。